誰が誰を搾取?


自分達の将来が不安定で絶望的な気分になるのも分かるが、だからといってなぜ社会保障の恩恵を受けてるような弱者を叩くのかって話よ。


あくせく働いても生活保護の受給額と同程度しか稼げないことに不満を持ったとして、それは受給してる人たちの問題ではなく、そのような経済状況を許している政府や資本家の問題であって、不満をぶつけるべき先が違う。
確かに社会保障を不正に利用してる人はいるけれども、全体からすると非常に少ない(生活保護の不正受給は全体の1%未満だとか)。頭の悪そうなテレビ番組がそのごくわずかな事例をあげつらって、一事が万事、社会保障の恩恵を受けている人々のこと全体を悪者のように印象付けているのも「搾取される感じがする」原因になってるかもしれないけど、そうやって中流層貧困層に憎しみを向けて怨嗟の声を吐いて溜飲を下げるようになっていれば、そのぶん政府や資本家は責任追及されずに済むわけで。絵に描いたような分断統治ですな。


そういう状況を本当に「分かって」て書いてるんだとしたら、なおのこと悪いわ。結局それって政府や資本家に矛先を向けたくない・向けることができない・向けたところで何も変わらないだろうと勝手に諦めてる、のに、その鬱憤を弱者にぶつけることで晴らしてるってことでしょ。さながら、パパにお小遣い上げてもらえなかったから、甘やかされてる(と勝手に思い込んでいる)幼い弟妹をいじめて憂さ晴らししてるようなもの。小遣いに不満があるならパパに直接ネゴる以外に無いだろうに、弟妹をいじめても何も解決しないことがわかっててそれをするわけだから、幼稚な上に醜悪じゃないすか。
もうね、政府や資本家に盾突きたくないってんなら、ただ黙っとけよと。黙ってるのはヤダ、でも政府や資本家を責めるのもヤダ、そこで「搾取される感じがする」なんて言い出して弱者を叩くのは、ただの八つ当たりであって、その行為には正当性はおろか妥当性も合理性も無いっつーの。


ついでに言わせてもらえば、その不満の根源にあるという「我々に今後ともアッパーミドルの暮らしを続けさせろ」という欲求もまた、非常に危うい錯誤の上に成り立ってるように見える。
これって、社会情勢が自分達に追い風でありさえすれば自分達は落伍しないだろうという物凄い楽観視か、もしくは、そのような社会情勢にあって落伍するのは実力不足や努力不足のせいであって自業自得だろうという極端な自己責任主義のどちらかが前提となってるように思えるけど、どちらも儚い夢というか、個人が自身に課すとしたら自殺的な主義主張のように思われる。


自分も社会に出てからそれなりに日が経つけど、自分の周囲はさほどブラックとは程遠い(定時で帰れるし残業代も出る)にもかかわらず、そこそこ仕事の出来た人がふとしたきっかけで出来なくなっちゃうっていうような事例は少なからず見てきてるから、いま五体満足で気力充実していようともそれは本当に一時的なことに過ぎないかもしれない、というのが実感としてある。
でも世の中にはそういう事例すら甘えに見える人もいるようで、そういう人は「各個人の置かれている状況は本人の実力や努力にほぼ依存している」というような幻想を信じ込んでしまっているのでしょうね。個人的な努力を否定するつもりはありませんが、実際は、国の制度や社会情勢による影響の前では個人の努力なんて吹いて飛ぶようなもの。仮に今、自分が努力すれば努力しただけそれなりに報いられるような地位に居たとして、それはたまたまそのように努力が評価される幸運な境遇に置かれているに過ぎない、という認識が希薄なのでしょう。
例えば、私は身体能力が劣る一方で知的能力がそこそこあるから後者によって賃金を稼がせてもらってるわけですが(その知的能力が私の独力による産物であり私の占有物であると仮定しても)そのように賃金が稼げているのはそのような知的能力が価値を持つような社会情勢になっているからでしょう。もし情報システムが今ほど発達しておらず知的能力を要する職の需要が少ない社会であったなら、(私が今と全く同じ能力を持っていたとしても)私は今ほどには稼げていません。ある個人のある資質がどんなに高くとも、その資質が今まさに社会に求められているという状況でなければ、活躍などできない。
だから、社会的に成功している人も失敗している人も、その成功や失敗は社会とのマッチングによる運不運の割合が大きく、だからこそ、成功できた幸運な人は社会から得た利益の一部を失敗してしまった不運な人へと再分配することで、その運不運による触れ幅を小さくし社会を安定させるべく社会制度化されてるわけでね。誰もが不運に見舞われうるのなら、それによって生じる落差の少ない社会のほうが皆にとって住みやすいはず。


そういう観点からすれば、「俺は社会保障の世話になんかならない(なるような事態になったら勝手に野垂れ死ぬ)から、社会保障のための公金投入は止めろ」という主張は本当に近視眼的で、もしかしたら数年後・数ヵ月後には自分も社会保障無しでは生きられない立場になっているかも、という想像力に乏しい。そのような想定すらも自分の努力不足の結果だと認識してしまうようなら、自己責任論を内面化しすぎだろうと思われます。
そもそも自己責任論は資本主義全開の自由競争市場をドライブするための道具立てとして使われまくってきたわけで、そのように社会が過剰に誘導された結果いまある格差がもたらされたのだから、その格差に不満を持つ者がわざわざその道具立てとなった思想に今さら乗っかってやる必要も無いだろうに、と思いますけどね。権力者や富裕層に有利な理屈を、唯一無二の正しいものと信じ込まされ、それに則って振る舞うことで自分で自分に損させてる、それが「搾取される感じがする」ことの正体なんじゃないの?