劇場版アイカツ!感想


今日は劇場版アイカツ!を見てきました。
本来のターゲットたる子供たちに迷惑をかけないことをモットーに、今まで児童向け映画の鑑賞には細心の注意を払い、多くの場合は劇場へ足を運ばずにいたのですが、今回は劇場で見たいと思い、しかし冬休みに入り平日昼すら幼女先輩との遭遇が避けられない状況となってしまって、唯一残された可能性はクリスマスイブの夜でした。この日この時間帯なら幼女先輩も自宅で過ごしているに違いない、という期待のもと劇場を訪れたところ、目論見通り、大人しかいない(つか自分含めて客は10人に満たない)環境での鑑賞となりました。もちろん入場者特典は丁重にお断りさせていただきましたよ、ゲームやってない大友が手にするより1人でも多くの幼女先輩にいきわたったほうが有意義ですからね。
唯一の誤算は、カップルで見に来ていた客がいたことでした。色恋沙汰に縁遠い層が見に来るであろう回であることが容易に想像できるにもかかわらずの暴挙。あまりの配慮の無さに胸糞でしたが、いちごちゃんに免じて許します(何様


劇場版の感想を語る前に、まずアイカツ2年目についてのおおまかな感想について書いておこうと思います。結論から言うと、プロットの要求する水準に対してセイラのキャラ付けが弱すぎたのではないか、という感じです。
ゲーム2年目の展開との絡みもあり、それまでのスターライト学園とは別に新たなアイドル学校であるドリームアカデミーが登場したことは、それはそれでよかったと思うし、セイラ、きい、そら、マリア、ドリアカ勢いずれのキャラも少ない当番回をうまく活かしきってキャラの確立ができていたと思います。しかし、年間通しての大きなプロット ― スターライトが新興ドリアカと競い合っているところに神崎美月がダブルエムとして衝撃的なカムバックをし、最終的にスターライトのホープ星宮いちごとドリアカのホープ音城セイラが手を組みツウィングスとしてダブルエムと直接対決する、という展開を考えたときに、いちごと並び立つパートナーとしては、セイラの描写は弱かったのではないか。
セイラは、パーソナリティとしては(しばしば勝気な面を見せることがあるものの)本質的にはマジメで全キャラ中でも常識人ポジに近く、能力としては音楽の才能があって音楽好きであり、そのバックグラウンドとしては妹を楽しませたくて音楽をやってきたという設定になっています。初登場時の勝気強さをずっと引っ張り続けていられればパーソナリティで魅せることもできた(実はいちごよりも根性が座ってて逆境に強い、とか、いちごとは異なるベクトルで向こう見ず・破天荒・ロックな性格で「ドリアカ産いちご」な振る舞いをする、とか)と思いますが、初登場直後に対面したいちごに完全にタジタジになってしまい、それ以後はドリアカ勢の他のキャラの強烈な個性の中でだんだんと「ドリアカの蘭ちゃんさん」的パーソナリティに落ち着いた印象があって、この面でいちごと向こうを張るのは難しい。妹との関係というバックグラウンドも、個別のエピソードとしてセイラのキャラに深みを与えることはあっても、それが何かアイドルとしての強みへと繋がっていくというような明確な描写には乏しかったかと思います。残る特色たる音楽の才能こそ、もっとも簡単に(安易に?)セイラの強みを出せる部分だったかと思いますが、これまた自分語りや周囲からの人物評としての言及ばかり多くて、「セイラは音楽スゴいんだ」と納得させるだけの説得力が足りないんですよね。
ドリアカ勢の他のメンツに目をやると、そらというキャラがいます。彼女は自身がアイドルでありながら独自のブランドを持つデザイナーでもあり、自分がステージで着る服は全部自分でデザインしてる、という設定を持っていて、それだけでもうスゴさが段違いじゃないですか。「芸能人はカードが命」というキャッチコピーがありますが、その命たるカードを自分で手掛けることができるわけです。アイカツ1年目を通して見た視聴者には、そのスゴさが伝わらないわけがないですよね。初登場時には、同じファッション系の特色を持った蘭のキャラを食ってしまうのではないかとすら思ったのですが、天然vs常識人というパーソナリティの違いやファッションの方向性の違いなどで、結果としてはうまいこと差別化したもんだなと思います。
で、セイラの音楽要素って、このそらのファッション要素にすら負けてませんかね?セイラの音楽要素をそら並に強化して描写するなら、例えば「自分がステージに立って歌うなら、自分で作った歌しか歌いたくない」とかそういうレベルじゃないですか。初期に歌ってたアイドル活動!のロックバージョンも、まだ曲作りに未熟だったセイラが編曲だけでもと思って手がけた、とか、自分のプロデュースをきいに任せてはいても選曲や音響は自分がやることとして譲らない、とか、著名な歌手から楽曲提供のオファーが頻繁に来るようになった、とか、そういう描写やエピソードを執拗に重ねていけば(そもそもセイラの以前にも以後にも音楽についての特色を持ったキャラが他にいない空白地帯なのだから)アイドルとしてはまだまだ駆け出しでも音楽の才能はプロ並以上に秀でたスゴいキャラとして説得力を持たせることができたのではないでしょうか。そこまで強烈に描写してはじめて、いちごとはまた別の意味で大きな可能性を秘めた存在としてセイラが視聴者に認識され、「この異なる個性を併せ持つツウィングスなら、トップアイドル神崎美月と彼女の見込んだベストパートナー夏樹みくるの組むダブルエムにも、競り合うことができるんじゃないか」という納得感が生まれたんじゃないのかと。なんならツウィングスのための楽曲(フレンド)をセイラが書き下ろすってエピソードだけで1話作れたかもしれないし。


まあここでオレ妄想をいくら開陳しても意味のないことですが、2年目を見てきた感想としては、そういう不完全燃焼なモヤモヤを個人的に抱えていたわけですよ。ツウィングスの結成も、ダブルエムに勝つことも、プロット上で設定されたマイルストーンを予定調和的に消化しただけのような気がして、ツウィングスの爆発力というか、いちごとセイラだからこそ起こせた化学反応というようなものの実感がまるで湧かなかったというか。
そんな中でテレビ放映は3年目に突入し、あかりGenerationと銘打たれているとおりキャラが代替わりしました。おおかた予想できてたことではありますがドリアカの存在自体がいったん希薄化して、スターライトの中等部にまたフォーカスが絞られるようになったわけです。まああかりたちの話は今のところとても楽しめているのでそれはそれでいいのですが、2年目の結末についてのモヤモヤは残ったまま。そうすると、いちごが主役であると謳われている劇場版は、2年目までの話の延長として何かもっと腑に落ちる答えというか、もっと納得のいくケリを見せてくれるのではないか、という期待を持ってしまうわけですね。


で、そんな気持ち悪いほどこじれた感情を抱えた一アイカツおじさんが実際に劇場版を見に行って何を感じたか、がここからのお話となります。正直、私と同じようなモヤモヤを抱えている人は(いるのかどうか知りませんけど)とりあえず見に行ったほうがいいと思いますよ。見ることでそのモヤモヤが解消するとは言えませんが、見ないでモヤモヤしてるよりはずっといい(と、少なくとも私は思いました)。
なおテレビシリーズ未見の人は、公式配信中のエピソードだけでも見て劇場に足を運べば、そこそこ楽しめる内容になってます。


以下ネタバレあり。




スタッフのインタビュー*1等々の周辺情報を読むと、テレビではユニット対決という形でダブルエムに勝利したいちごが劇場版ではソロとして美月との決着を付けるという構想に固まっていき、そこに3年目主人公であるあかりが絡む三世代揃い踏みの物語へとまとまっていったようですが、この切り口で言えば本当にそのとおりによくできていると言えます。
主人公であるいちごと、副主人公的な立ち回りをするあかり、そして出番がわずかでも決定的な存在感を醸し出す美月のバランスが非常に素晴らしく、三世代揃い踏みの物語としてはかなりパーフェクトなデキでしょう。いちごの美月に対する想いが、あかりのいちごに対する想いになぞらえられることであかりが突き動かされ美月を呼び戻し、そうして吐露された美月のいちごに対する想いが、いちごのあかりに対する想いへと変奏されリフレインしている。この3人の関係性がすごく美しく描き出されていると思います。


また、テレビシリーズ2年目のかなり早い段階から劇場版制作が動いていて、そのための伏線をテレビ本編の中にいろいろと仕掛けていたとのことですが、劇中ドラマ「イケナイ刑事(と、イケナイ警視総監)」「怪盗スワロウテイル」「チョコポップ探偵」のメインキャストが全員いあわせても被らないキャスティングになっていて、そしていちごはそのどれにも出演していないというのは、いまさら気付いてちょっと感心しました。


2年目までに登場した主要キャラにもそれぞれ見せ場がきちんと用意されていて、各キャラのファンに対するサービスも忘れていない*2のもエンターテインメント作品としてポイント高いかと。
そこにはドリアカ勢も、そして夏樹みくるも含まれてるわけですが・・・そこがまた前述のモヤモヤをこじらせることに。


というのは、セイラが登場しているのにいちごとの特別な関係性が描かれず、みくるが登場しているのに美月との特別な関係性が描かれていないわけですよ。つか、セイラはわざわざ「あなたがドなら〜」のくだりを言ってるのに、いちごに凡庸なお礼の言葉しか返させないのはどうなの?そこはノリで「なら私はミ」というあのウザいやりとりをあえて一通りやって最後にアハハと笑い合う、そういう描写があるだけでかつての戦友との絆みたいなのを仄めかせることができるわけじゃないですか。コール&レスポンスはどうしたスタァァァ宮ぁぁ(ジョニー先生
美月にしても、孤高の苦悩を語るのはいいんだけど、一度はその孤独をみくるが埋めてくれたのではないんですかね?結局いちごがトップアイドルまで上り詰めることによってしか美月が解放されなかったのだとしたら、みくるはいい面の皮ってことにもなりかねんので、美月に心情を語らせるならみくるについて一言でも言及させるべきだったのではないのかと。


つまるとこ何が問題かというと、ツウィングスとダブルエムの対決の経緯が、えらく軽い扱いになってやしませんか?ってことなんですよ。そこを無視してしまえば、確かに美月・いちご・あかりの美しい物語だけが立ち現れますが、それって内容的には2年目の続きではなくほぼ1年目の続きってことになってしまう。セイラ以外のドリアカ勢にしても、ドラマパートに出演こそしてるものの歌の参加は無し(その意味ではセイラはまだ優遇されてるのか?)で、いやいやハッピィクレッシェンドやるならドリアカ勢も混ぜてやれよと。「制服が違っても〜」とは何だったのか。なんだか2年目がまるで無意味だったみたいな感じ。


正直な話をすればね、私も2年目放映中は「なんでユニット対決なんだよ、ドリアカとの絡みとかいらんから美月vsいちごをサシでやれよ」と思ってたクチですよ。でもね、ゲームのほうの2014シーズンの締めがユニット対決だったからってアニメでもユニット対決をクライマックスに持ってこなきゃいけないという事情があったにせよ、いちごと美月の物語を掘り下げたかったアニメスタッフ的にそれが不本意だったり難しかったりしたにせよ、そうすると決めて物語を描くならそのための全力を尽くすべき(これが最初に述べたモヤモヤの根源)だし、そして描いた結果として盛り上がりが悪かったからってそれを無かったことにすべきじゃない(これが今回のモヤモヤの根源)でしょ。別段ドリアカ愛があるからセイラについて語ってるとかじゃなくて、せっかく描くんだから、描いてきたんだから、もったいないことをしてほしくないんですよ。ツウィングスとダブルエムの対決は、そこに至る経緯含め直接的な描写そのものはイマイチだったかもしれないけど、後からの語り草としてまだフォローできる範疇(だってマスカレードを超える観客動員数で、今回のスターライズスタジアムよりも多かったわけだから、伝説的なステージなのは不動なんだし)、のはずで、もっと意味のあるもの「だった」ことに(後付的に)できるんじゃないんですか?セイラと組んだことでいちごが得たもの、みくると組んだことで美月が変われたこと、そういう部分を片鱗だけでも描いてほしかった。
なのに、今回の劇場版の中ではあの対決は「ツウィングスが勝ったのに美月はランキング1位のまま」という、あまり肯定的・好意的ではないニュアンスでばかり言及されるんですよね・・・。なんかこう、スタッフが本気で「あれはノーカン」って言ってるように見えてしまってしょうがないんですよ。そうするとホントに、いちごとセイラの絆も、美月とみくるの絆も、作劇上の必要から設定されただけの、単なるアリバイ描写だということに(名実ともに)なってしまう。


またインタビューの話に戻ると、もともと歌を作る話はテレビシリーズでやりたかったのがいろいろな制約でできなかったので劇場版で取り入れたような旨も書かれてますけど、たぶんそこにはセイラまわりのことも含まれてるのかなーと思うんですよね。ならなおのこと、テレビシリーズでセイラの音楽要素をチョイチョイ推しておいて、今回の劇場版で歌を作る役回りにするとかもありえたんじゃないの?とか。ツウィングスでいちごといっしょだったことを考えると、涼川さんよりも適任じゃん、とか。・・・あーもう何言ってもしょうがないですね。


と、いうようなおっさんの雑念を抱かずに見れば、非常によくできたエンターテインメント映画です。
ドリアカ勢のテレビ本編での再登場と、劇場版第2弾での掘り下げを祈って、筆を置くこととしましょう。

*1:アイカツ!オフィシャルコンプリートブック(isbn:9784056107180

*2:ノエルちゃんの霊圧が・・・消えた・・・? まあ姉さしおいて3年目にもちょくちょく出演してるから多少はね?