性暴力ゲームの議論

例えば、いま誰かが性暴力を架空表現によって描いたメディアを創作し、誰にもそれを触れさせること無く人里から離れた山の中に放り込んだとする。さてその性暴力メディアは“悪”たりうるか。
もちろん、土地所有者の迷惑だとか他者によって将来発見された場合だとかはあるけれども、あの人権団体の主張するような“現在進行形での女性に対する脅威”としての“悪”の性格はそこには無いでしょう*1
そのように、確実に存在していながらも社会から隔絶されていさえすれば問題にならないのであるから、存在それ自体が悪ということはありえず、それがどのように人々の営みに影響するかという観点でのみ、善悪が判断されます。


モノであれ因習であれ制度であれ法であれ、存在そのものが問題なのではなく、それが引き起こす影響が問題である。したがって人権団体らが言う「性暴力ゲームそのものが女性差別」とする主張も、その影響において、と解釈する他ありません。
性暴力ゲームが与えうる影響としては、(その真偽はともかく)次のようなものが想定できるでしょう。

  • そのようなゲームを享受する者が感化されることによって実際の犯罪行為に走る恐れがある。
  • そのようなゲームが流通できているという事実により、そのゲーム内容を追認するような女性差別意識が社会に蔓延しかねない。
  • そのようなゲームがあると知ったことにより不快感・精神的ダメージを受ける。


1つ目については、それを理由に法規制を強化するに足るほとの根拠は無い*2というのが現状です。仮に何らかの関係性があったとしても、メリットとデメリットのバランスにより法規制すべきとは限らないでしょう*3


2つ目については、これもまた差別意識そのものが問題なのではなく、その影響によって引き起こされる差別的扱いこそを問題にする他ありません。そしてそのような差別的扱いについて抑止・処罰・救済する法は、(雇用機会均等法など)確実に整備されてきています。それでもなお是正されていないのなら、その不備を補うための法の議論をすべきです。
確かに、社会に存在する差別的扱いはその全てが必ずしも可視化されておらず、潜在的なものまで根絶するためには、大元の差別意識をどうにかするしかない、との見方はあります。ですが、個々人の持つ差別意識は(それが言動に結びつかないかぎり)その人の内心の問題であり、“思っているだけ”の人を見つけ出すことも罰することも困難です。性暴力ゲームの愛好家1人1人を調べていって、犯罪歴無し、素行も悪くなく、ヒアリングの結果でも「女性を差別したりしません」といった場合、さて弾劾すべき差別意識はどこにあるのか*4。「差別意識を助長しそうだから」と言っても結局は印象論に過ぎないのなら、強力効果論と同じく、法規制強化の根拠たりえません。
加えて言えば、性暴力ゲーム女性差別意識を植え付けると考えるのなら、それに対する対抗言論にも同程度に女性差別に対する抑止効果があると考えるべきでしょう。片やゲーム、片や政治運動ですから、仮にゲームに影響力があるにしても、それを圧倒的に上回るほどの影響力が差別撤廃の言論にはあるはずです。実際、女性団体などがこれまでに行なってきた言論活動によって、(前述したような、差別的扱いの是正についての)法整備が進んだだけでなく、社会の意識も大きく変わってきたのだと思います。現に、性暴力ゲームが社会的には鼻つまみ者の扱いを受けてるのは、それらの言論によってそういう風潮が作り出され維持されてることの証左でしょう。他者の内心は調べることも罰することもできませんが、こうした言論活動を活発に行なうことによってこそ、他者の内心からも差別意識を取り除きうるのです。


3つ目については、そのためのゾーニングだ、と言うことができます。
私は極度の怖がりなので、ホラーやスリラーやグロテスクな映画なんかを強制的に見せられでもしたら、強いストレスを受けるでしょうし、本当に悪くすれば何らかの心因性疾患の症状にみまわれるかもしれません。しかし幸いにも今までそのような強制を受けることなく平穏に暮らせています。なので、ホラーやスリラーやグロテスクな映画は、嫌いだし、内容を理解しようとも思わない(オススメとか説明とかしてくれなくていい)けれども、それらがこの社会に存在することを許さないほどではない。TVCMなんかで突然流れたりするのにはイラッとしたりもするけどね。
最初の例え話にも共通しますが、触れることによってダメージを受ける人がいるとき、触れたくない人には絶対に触れないような施策が講じられていれば、それはその人にとって(存在しない場合と同程度に)無害な状況になっています。
そして性暴力ゲーム(に限らず、性的なメディア全般)は、そのような施策が既に講じられています。直接目に触れないように(売り場の隔離など)した上、その旨を知らせ(「この先の売り場はアダルトコーナーです」)、成人にしか売らない(身分証の確認の徹底)という形態になっています。現に、今回の騒動が起きるまで、そのようなゲームに言及し嫌悪感を表明する人は現状ほど多くは無く、つまりはゾーニングが有効に機能していたということです。今回の騒動でそのようなゲームの存在に触れて精神的ダメージを負った人たちは、このゲームを問題化して日本に持ち込み知らしめた人権団体によってゾーニングが破られたことにより、結果的に傷つけられた、という見方もできるでしょう。
はたして規制推進派は、根絶されないかぎり配慮されてるとは言えないとでも考えてるのでしょうか。実施されている配慮の実効性も検討せずに。


表現の自由について。
「規制反対派は『表現の自由=ヤンチャしても批判されない権利』と解釈してる」などと勝手に決め付けてる人がいるみたいですが、そんな反対派いるの?藁人形じゃなくて?
私が何度か言っている「表現の自由を守るべし」との主張は、そのまま「国家権力による規制を許すな」と読み替えていただくのが理解が早いかと思います。ヘタリアの一件のときにも書いたけど、表現に対する批判もまた表現の自由として誰にでも許されているものです。これは以前に書いたような個人の自由の問題であると同時に、健全な社会を維持していくための問題でもあります。
何が善で何が悪かということを考えるとき、具体的個人に具体的被害を与えるような行為 ― 例えば名誉毀損であるとか ― は人権侵害として明確に悪とみなせますが、そうでないものについて、何が好ましくて何が好ましくないかの判断は、常に市民によって下されなければなりません。というのも、人類が始まって以来、どこかに善悪の判断基準を一元的に置くという試みはいろいろとなされてきました(預言者、王様、教会、投票によって選ばれた愛国的指導者、革命を果たした英雄、等々)が、そのどれもが、古い倫理観の硬直化と権威に基づく弾圧を生むという失敗を繰り返してきているからです。
仮にいま、現代における最も崇高な倫理観を(そういうものがあると仮定して)、国家権力に組み込み、取締りと処罰を行なうようにしたとします。そうすれば、確かに現時点において概念が明らかになっている差別意識の類 ― 例えば女性差別意識 ― を取り締まることは可能になるでしょうが、時代が移り変わって新たな差別 ― 例えば非正規社員は負け組、というような ― が生まれてきたらどうでしょうか。善悪判断の全権を委ねられている国家は、もしかしたら対処するかもしれませんが、権力内部の政治的事情などから対処しないかもしれません。あるいは、国家権力自身が、体制維持のために意図的に差別構造を生み出すかもしれません。そうなったらそうなったでそのときに市民が行動を起こせばいい、と考えるかもしれませんが、そうなってから行動するのではあまりに多くの血が流れることになる、というのが歴史の教訓です。
表現の自由の社会的な意義は、善悪の判断を一元的には行なわないことでこのような失敗を回避するところにあります。好ましいと思う人もいれば、好ましくないと思う人もいる。価値観を異にする者どうしが意見を述べ合い、その言論闘争が終わりの無い小競り合いを続けることによって社会の風潮は形作られ、善悪についての緩やかなコンセンサスを生み出す、そして社会の構成員や構成要素の移りかわりに伴って言論闘争も変遷しその時代にあったコンセンサスへと変移していく、という柔軟なシステムとして機能しているんです。前述したとおり、人権団体の言論が、唾棄すべきゲームを唾棄すべきものとする人々の風潮を生み出しているわけですが、これこそが表現の自由が正常に機能している状態なのです。
件の人は国の介入によって休戦状態になることを殊更に高く評価していますが、それは結局、国家権力はいつでも妥当な介入をしてくれるだろうという見込みに基づいた話に過ぎません。この言論闘争が互いの憎悪を煽ることを懸念されているようですが、少なくとも議論が全く尽くされていない現状で、憎悪とやらを止めるためとて国家の介入を是認するのは、国家のパターナリズム化を加速させ、過去と同じ失敗を繰り返すハメになるだけでしょう*5
だからこそ、たとえそれがどんな醜悪なモノであったとしても、その評価を決めるのは市民1人1人でなくてはなりません。“キモいゲーム”に対して言いたいことがあるなら好きなだけ言ってくれて結構。しかしその勢いに乗じた国家介入とか法規制とかは断固拒否。これこそが表現の自由の下で取るべきスタンスなのだと思います。


行き違いがあるとすれば、何の予備知識も無くこの件に触れた人の中には「このようなゲームを愛好する者の多くが、現実の他者危害にも興味があるに違いない」と思っている人が少なからずいるだろうということ。暴力に肯定的なゲームをプレイすることが必ずしも暴力的な人間であることを示さないように、そういったゲームを愛好することがただちに現実の他者危害に興味があることにはならないし、仮にそういう人がいたとして、現実に実行に移す者はその中でもっとずっと少ないでしょう。
現状でゾーニングを実施されていることからもわかるとおり、不快感や恐怖を感じたりする人たちに向かってそういったゲームを突きつけるような嫌がらせがしたいわけではない。まともな趣味として認めてもらいたいわけでも理解してもらいたいわけでもない。できることなら、お互いがお互いを傷つけ合わずに共生できる道があればと思っている。そして女性たちやフェミニストたちの中にも、そういった共生の可能性には肯定的な人たちもいる。
だから、規制反対派が対峙している相手というのは、女性全般でもなければフェミニスト全般でもないし、まして性犯罪被害者たちでもない。故意にか確信にか性的なメディアを根絶することそのものを目的化した人たちと、その人たちの言葉に惑わされて「共生の道なんか無いんだ」と思い込んでしまった真に善意の人たちでしょう。故意犯&確信犯は議論には興味など無いからテキトーに軸ずらしに終始して反対派を半ば無視ながら法規制強化のためのステップアップだけを狡猾に行ない、善意の人たちを経緯がわからないままに議論の渦に巻き込むことで終わったはずの議論や説明を延々と反対派に繰り返させて消耗させている。


そういう現状なので、これから議論に参加しようとしている善意の人たちは、焦らずにこれまでの議論をご自身で追いかけて理解した上ご自身の判断で「本当に共生の道は無いのか」ということを考えてもらいたいです。繰り返しになりますが、あなたがた自身にこういった趣味の内容を理解することを求めているのではありません。こういった趣味を持っている人たちは(そうでない人たちと同程度に)無害であるということを理解してほしい、ということです。


そして反対派の人たちは、(自戒も込めてですが)目の前の議論に必要以上に熱くならないでほしい。あなたが今まさに対峙しているのは善意の人なのかもしれないし、あなたが熱くなりすぎることでその人を硬直化させたり傷つけてしまうかもしれない。
そしてそんなことをしている間にも、故意犯&確信犯は着々と規制推進のための根回しを進めている。この酷い流れを止めるためにいま必要なのは議論よりも政治活動です。ブログで長ったらしいエントリを書いて規制推進派の主張そのものについて反論するよりも、推進派議員降ろしを狙った言論活動を展開するほうが有効かもしれません。一有権者としての立場で、反対派議員に対する応援や慎重派議員に対する具申、推進派議員に対する問い合わせ*6なども有効でしょう。もちろん選挙には必ず行き、反対派議員を支持して推進派議員を決して支持しないこと。
ここが1つの正念場ですよ。

*1:その行為が知れれば創作者の心性は問題にされるかもしれないが、その行為自体が不可視化されている場合にはそれすらも問題にされません。

*2:いつもの繰り返しになってしまいますが、強力効果論は長らく研究されていながら確証を得られていません。

*3:車社会が交通事故数を底上げしているのは確かですが、車自体はその便益が大きいために規制されません。仮に架空表現と実際の犯罪との間に関係性が見出せたとして、(性暴力に限らず;また名作とされるような高尚な古典なども含めて)犯罪行為を描いた架空表現すべてを法規制の対象とするのには、その関係性がどの程度強いのかという検討など、さまざまな議論が起こることと思います。

*4:あるいは、差別意識の傾向が見て取れたとしても、ゲームが差別意識を植え付けたのか、もともと差別意識を持っていたからそのようなゲームにハマったに過ぎないのか、その判別は難しいでしょう。

*5:もちろん、言論闘争が場合によっては死人を出すことだってあります。しかし、規制反対派の怒りのほとんどは議論をすっ飛ばした法規制やそれに準ずる自主規制強化の強要という手法についてのみ集中しており、性暴力ゲーム愛好家も多くは「批判されるだけなら甘んじて受け入れる」という立場をとっている現状を見るかぎり、法規制を禁じ手とした上での言論闘争においてそのような危険な緊張状態が訪れるとは思えません。

*6:直接的な批難の内容よりも、相手にとって痛い質問を投げたほうが有効かもしれません。