電気羊の夢は見ずとも

ラブプラスがマスメディアに紹介されれば当然こうなりますよね。オタクを指差して笑うのはいつもどおりの大衆娯楽なので、そのことについてはいまさら何も言う気にはなれませんが。


SFなんかだと生身の人間ではない存在との間に愛が成立するかどうか、というテーマはありがちだったりする。相手は反応を返してはくれるけれども、人工物であって人間ではない。極端なことを言えば、その反応全てが人工無脳の産物かもしれず、だとするとその相手に愛を囁くことは、究極的には壊れたレコード再生機に向かって愛を囁くことに等しいのではないか、という疑念が生じる。
これをどう克服するかが物語のひとつの山場になりえるわけです。具体例として、ちょびっツにおいて秀樹はちぃに対する己の愛を肯定するに至ったわけだけど、その根拠はまさに自分がそこに愛を感じたから以上のものではないんだよね。たとえ相手が人工無脳であったとしても、俺のこの愛だけはホンモノだ、っていうやつ。


本気でラブプラスに恋人を仮託する人々というのは、まさにそういう価値観が現実的になりつつあることを表象しているように思えるんだよね。つまり「誰かを愛したい/愛されていると実感したい」という感情を満たすのに、必ずしも「相手も自分と同じ人間である」という対象性を必要としない、そのことに気付いてしまった人々なのではないかと。「ラブプラスとコンビニがあれば生きていける」とは、いかにも象徴的です。
そのような価値観を病的と見る向きはあるだろうけど、しかし裏を返せば、このような事態になったそもそもの原因として、人間の愛はもともと相手との対象性を必要としないものでありえたということがあるわけで、じゃあ生身の人間同士の愛が人工無脳との愛と比べてどのように違いうるのか、結局は人工無脳を愛するように人間を愛してるだけではないのか、ということが逆に問われているのではないでしょうか。


なので、ラブプラスに興じている人々を笑い者にして済ませてしまうのは簡単だけれども、そうやって笑う人たちこそかなり真剣に考えなければなりません。ゲーム機の中の恋人を愛する人々を笑えるほど、自分たちはきちんと他人を愛せているのか?と。