ヒトラーの尻尾


今回の都条例に賛成する意見のサンプルについて。ざっと思いつくだけでも、次のような論点が思いつく。

作者や読者が反対すべきは「乱用」であって「条例成立」じゃないのではあるまいか。

東京都「性描写漫画販売規制」条例改正案、成立おめでとう。 - Adan Kadan Hatena

乱用が容易な条例より乱用が困難な条例のほうが望ましいのだから、なぜ乱用が容易な条文のままで条例を通そうとするのか、その理由について制定者に問うのは当然のこと。

「創作作品」が、若い読者の「性観念の構築」に影響を与えるという証明データがない、という意見も目にする。(例:「表現物の性的描写と実際の性犯罪とは何ら因果関係を見いだせないとするのが定説だ」愛媛新聞社
 上記の記事は定説と書くが、私は根拠を見たことがない。データをご存知の方は、ご紹介願えればありがたい。

科学的に「性に関しては」影響がないと実証される日までは、影響はあると思うほうがいいのではなかろうか。

論理的に、「影響が無いこと」は直接的に証明できず、「影響が有ることを示すデータが無い」ということをもって蓋然性のレベルで確認される(いわゆる悪魔の証明)。なので規制を推進・賛同する側が「影響が有ること」をデータで示さないかぎり、「影響が無いこと」が定説とされる。データを示す必要があるのは反対派ではなく推進派のほう。

さらに反対派諸氏に申し上げたい。「ああ、この作品を子供に読ませないなんて、文化的損失だ」と、多数派を納得させるだけの、「東京都条例に該当する作品」、つまり強姦を礼賛しつつ読まないことが損失である作品が書けるものなのであれば、まず、書いてみせていただきたい。

残念ながらその必要は無い。なぜならここでの論点は「有害であっても多数派のメガネにかなえば流通してもよい」ではなく「多数派のメガネにかなわなくても無害なら流通してもよい」だからだ。
そして有害か無害かについては、前述の通り、「影響が有ること」が示されていない以上は無害であるとみなされるべき。


以上の論点は規制反対派にしてみればおなじみの議論なので、このブログを読んでくださってる方には耳にタコの類かもしれません。で、ここであえて指摘しておきたいのは次の点。

販売者が自らブレーキをかけないなら、別の誰かがかけることになるのは、いたしかたない。それが行政であるのは、まっとうな選択だ。

なぜ「ブレーキをかける役が行政であるのはまっとうだ」と考えるのでしょうか。あなたがある表現を問題視するなら、“誰か”ではなくて、あなたが、他の誰でもないあなたがブレーキをかけるべきなのではないですか?出版社に直接意見を言ったり、あるいは他の人と意見を言い合ってあなたの問題意識を共有したりしてさ。なぜ公権力に頼ろうとするのか。
もし問題視する側が本当に多数派なら、そういう市民レベルの活動でも十分に抑制を求めることができるはずで、公権力がやらなければならないとする理由はない。加えて、多数派だからといってその主張を実現するために公権力を動員することが必ずしも正しいとは限らない。自分が多数派だと標榜する人は、そろそろ「自分は多数派だ」→「多数派だから公権力を動員していい」という論理の飛躍から脱却したほうがいいと思いますよ。そもそも、あなたは本当に多数派なのか、そのあたりも疑うべきだし。


前にも書いたとおり、表現の善悪は市民が決め、市民の自律的な活動によって変化していくべきであって、そのための労力を公権力にアウトソーシングしてはいけない。なぜいけないかといえば、実際に公権力まかせにして血を見た歴史が既にあるから、というのも以前に書いたとおり。


例えばその具体例としてナチスなんかが挙げられることが多いわけだけど、そうするとなぜか規制推進派は一笑に付すのね。「出たよ極論(プッ」「なに顔真っ赤にしてるの?w」「感情論乙」みたいな感じでね。
そういう時いつも感じるのは、そういう人たちの、物凄い危機感の無さ。何というか「性表現の規制を皮切りに思想統制的な政策が進められていく?そんなことになるわけないでしょ」みたいな楽観視があるように思うんだよね。「俺たちは賢いからそんなヘマはしない」的な。でもさー、当時のドイツ人よりも今の我々のほうが賢明かつ善良である保証なんてどこにも無いじゃん。むしろ、当時のドイツ人も我々と同程度には賢明かつ善良で、「そんなことなるわけない」と思ってた人も少なくなかっただろうに、それでもああいうことになっちゃった*1と考えるべきなんじゃないの?
だから、その失敗から教訓を引き出すなら、「たとえ自分たちが十分に賢明かつ善良で、公権力を完全に制御してると確信していようとも、表現の善悪を決める権限を公権力に与えることには慎重でなければならない」ということこそ学ぶべきであって、「俺達は失敗した連中よりも賢いから、俺達の思想統制は綺麗な思想統制」などという都合のいい選民意識を肥大化させることはむしろ歴史に学ばない最悪のパターンなんじゃないの?
特に今回の条例は成立過程を見るかぎり、「民衆の声に公権力が応えた」ではなく「公権力の提案を民衆が追認した」に近いわけで、過去の思想統制の歴史においても公権力が主導したものを民衆が拍手と喝采で迎えた事例も少なくないことを考えれば、まさに警戒すべき兆候そのものなのではないかと。
かつて失敗した人々も自分達と同じ人間で、であれば自分達もまた同じ轍を踏みうるんだ、ということにもう少し想像力を働かせたほうがいいと思う。今までそれなりに平和に過ごせてたからといってそういう危機感を持たずにいることは平和ボケでしょう。


んで、実際の事態の推移としては、各社のボイコットによりTAFの開催が本当に危ぶまれてることが、担当の社団法人の声明で明らかになったようで。この声明の中で、単に「開催が危ぶまれる」ことを報じるだけでなく、「都条例に問題がある」ことにまで具体的に言及しているあたり、好感が持てますね。
これで本当に開催を強行するようなことになれば、会場の様子をちょっと見てみたい気もしますが、一参加者としてもボイコットすべきだと思うので、そのときにはどこかのメディアが様子を報道してくれることを期待。
あと、企業として最初に動いた角川書店の井上社長が廃案署名の呼びかけを検討しているようだけど、本気でやるならちゃんと組織化したほうがいいでしょうね。10社会でリソースを持ち寄って廃案署名をとりまとめる組織を立ち上げて、一般の人に経緯をきちんと説明するウェブサイト作って、1月以降刊行予定の漫画の単行本にその活動を紹介し協力を呼びかけるペーパーをはさんで、アニメの放送枠でも協力を呼びかけるCMを流す*2。規制に反対なタレントとかも起用してね。そこまでやらないと難しい戦いなんじゃないかと。
もちろん、自分が協力できる範囲では協力しますよ。

*1:まさにニーメラーの詩に描かれた経緯そのものだわな。

*2:特に、アニメや漫画のファン以外の層をどれだけ取り込めるかが重要なので、親も見ていそうな枠を効果的に使うべき。