知る権利の濫用


アルジェリアでテロに巻き込まれて亡くなられた方々の実名を報道することの必要性をマスコミ関係者はしきりに説くけど、全く同意できんわなあ。


不特定多数の人が巻き込まれた災害とかなら安否確認のために報じる意味はあるけれど、本件に関しては会社や政府がきちんと把握した上で家族の方々とも連絡を取り合ったりしてるわけだから、安否確認の意味は無いよね。
あるいは、犠牲者の名誉のため報じる、という意義があるにせよ、まず犠牲者の遺族ら近しい人々の意志が尊重されるべきでしょう。報じてほしいという人達については報じればいいけど、そっとしておいてほしい人達だっているはずで、そこに「犠牲者の名誉のためだ」とか押し付けがましくするのは傲慢じゃないですかね。だから、どうしても報じる意義があるというのなら、報じてほしい遺族の方がいないかどうか確認と調整を丁寧に重ねて同意を取る手間を惜しんではならず、政府や会社が非公表にしろと言ってるのを無視して一律公表するなんてのは言語道断だと思う。


悲しみを広く共有するために〜なんてお題目に至っては、ただのお涙頂戴じゃねえか。テロに巻き込まれた方々がどんな素性のどんな気質の人だったとしても、そのことによってテロの非道さが変わるなんてことはないでしょ。それとも何か?朝日は、犠牲者が改憲論者だったら事件の重さが減り、9条護憲派だったら事件の重さが増すとでも思ってるのかね?
どんな人であろうともその人の人権は尊く、それを一方的な暴力で脅かすテロは許されない、というのが自由主義社会が採るべき基本的な態度であって、社会の木鐸を自認するマスメディアこそそれを率先して人々に示すべきなのに、犠牲者の個別具体的なプライベートに立ち入って共感を得るような方法によってしか事件の重大さを伝えられないのだとしたら、ゴシップ紙と大差ないだろうよ。主要テレビ局・主要紙として恥ずかしくないのかね。
てか、理詰めの記事によってではなく扇情的な記事によって国民に訴える報道姿勢は、開戦を煽った戦前から何も変わってないように見える。戦争を反省してなかったのはマスコミじゃん、ていう。


だいたい、事件の背景についてだとか、社会の関心を呼ぶべく調査して報じる価値の高いことがもっと他にいくらでもあるだろうよ。現地入りしての調査報道が怖くてできないから、国内に篭って「政府は実名公表しろー」って喚いて仕事のフリしてるようにしか見えん。現地が危ないにしても、現地の情勢に詳しいシンクタンクとか、国内なり欧米なりにあるだろうに。


こういうことになるのは、社会の木鐸を謳いながら実態は民間企業なので同業他社を出し抜こうというインセンティブが強くなり過ぎ、抑制が効かないことにあるんだろうね。個々の記者の問題というより、構造として(誰が記者になっても最終的には)そうなってしまう。「職に貴賎なし、人に貴賎あり」なんて言うけど、マスコミという組織の構造的な問題として(記者個人の人としての貴賎によらず)こういうことが起こっているのであれば、マスコミ記者という職業は賤業だと呼ばれても仕方ないのかも。


しかしだからといって「マスコミを法規制しろ」ってのも問題で、体制がこれを奇貨としてマスコミを締め付ける方向に進むと、本当に国家権力が暴走したときに対抗できる術を大きく失うことになりかねない。だからこそマスコミにはしっかりしてほしいんですが・・・自分で自分の首を絞めてるって気付いてないのかな?
じゃあ法規制ではなしにどうやってマスコミを正せばよいのか、と言えば、まあ不買でしょうね。マスコミが民間企業であることを逆手に取るわけです。こういう報道姿勢がウケると勘違いしてるからマスコミもやってるのであって、これが不評だとなれば改めるはず。過激な人なら既にスポンサーに凸ってたりするのかもしれませんが、そこまでしなくとも、例えば身近な人に「朝日のやり方ありえないよね〜酷いよね〜」みたいな話を広めていくだけでも、十分に意味があると思いますよ。