キュレーション大事


会田誠の個展を開催した美術館に対し中止するよう抗議した団体がいたとかいうお話。
公権力や法規制を動員して(あるいは暴力的な方法で)中止に追い込むのでないかぎり、「こんなものはアートではない」「美術館がこういう展示会を開くべきではない」と主張することは(それ自体も1つの言論として表現の自由の範疇であるから)自由です。後は、その主張内容を見聞きした人にどのように評価され世論が形成されていくか、ってことになりますけど、抗議内容を読ませてもらったところ批判の仕方が非常に雑だなあという印象*1で、まあ会田誠の作品に生理的嫌悪感を覚える人達を感情的に煽ることができるかどうか、くらいな感じですね。


ただ、対する美術館の側も、勝手に言わせておいていいのか、という問題はあります。反発を招きやすい表現を行なうにあたってdisclaimerを出さない覚悟というのは確かにあって、その観点だけで言えば、美術館がノーコメントなのも(批判が集まることを覚悟の上であれば)アリっちゃアリ。しかし美術館というのは、一般的に、人々にアートを紹介することを通じてアートの価値を社会に還元していく役割を果たす施設と考えられているわけで、反発を招きそうな展示会を開いておきながら「この反発は織り込み済み」「この反発まで含めてアート」「だから説明はしないけどいいよね」などとふんぞりかえっていては、その役割の放棄とみなされかねない。
したがって、どんな展示会を主催するのであれ、その展示会の意義をきちんと社会に向けて語ることができないと、特に、反発を招きそうな展示会についてはきちんと人々に受け入れられるdisclaimerを出せないと、「あの美術館は何を考えているの?」という疑念を呼んで美術館と人々との間に好ましからぬ断絶を生むし、あるいは最悪「こんなのがアートだって言うんなら、俺達にとってアートなんか必要無いや」などとアートそのものの価値が見放されてしまいかねない。いずれにせよ、社会に広くアートの価値を訴えるという美術館の意義を、自ら著しく毀損してしまうことになっちゃう。
なので、反発を招きやすい展示会を開くときこそ、なぜ自分達がその展示会を開く意味があると考えたのか、社会へきちんと説明する努力をしていくべきじゃないかな、と思います。


会田誠の作品そのものの評価については、私自身あまり詳しくないですが、前掲のtogetterから拾ってきてみると、例えば会田氏自身のコメントがあります。

そして以下のような指摘。
これらを踏まえて考えてみるに、件の作品は、どのように表現されたものならば(A)ではなく(C)になるのか、という境界線を浮かび上がらせようとする試みのように思われます。しかし、この種のコンセプト自体は目新しいものではなくて、そうなると、この作品において見るべきところは「どのように表現された」かの非常に具体的な部分、どういった工夫を凝らすことで(C)であることを担保しようとしているのかというテクニカルな話が焦点になるのではないかと。だとすれば(別の意味で)マニアックな鑑賞眼が無いと、なかなか楽しめなさそうな感じもしますね。

*1:この問題を拡大してあわよくば架空表現を児童ポルノ禁止法の規制下に置く運動の足がかりにしようという意図であるならば、作品内容について踏み込んだ検討をあえて行なわずに大雑把な批判をする、というのも戦略の1つとして合理性はありますけどね。そういう政治的意図が背後にあるのだとすれば、よりいっそうその批判内容は不当だとも思いますが。