エルダ タルータ

 またまたいまさらな話題の感がありますが、
ls氏が猫殺し作家の件を取り上げてたので
少し反応してみる。


 ls氏が言うところの、「人類が人類以外の
生物に対し生殺与奪の権利を有している」
という価値観を許容し、そこに立脚して
いまの社会が成立していることには疑い
の余地は無い。
 しかしそれはあくまでも原則論のレベルの
話だろう。他生物への無制限介入が“原則”
認められるとしても、実際それをどの程度
振りかざせるかは、元々その社会において
共有されている価値観によって大きく制限
される。


 例えば、外に食事に行ったとき、そこで
どんなふうに料理を食べるのかは“原則”
その人の自由だろう。しかし、出てきた
料理を全て混ぜてグチャグチャにしたり、
ひとたび口に入れ咀嚼したものを口から
出してまた再び口に入れ直す、といった
食べ方をすれば、まわりから冷たい目を
向けられるだろうし、何かしら文句を
言われるかもしれない。
 それはなぜかといえば、そのような
食べ方をすべきではないという価値観が
社会に共有されているからに他ならない。


 猫殺しの話に戻れば、この作家に対する
風当たりは、日本古来からある(かどうか
は知らないが)“無益な殺生”を忌避する
価値観によるところが大きいだろう。
 確かに日本人も食料を得るために家畜を
日々殺しているし、害獣の駆除もしている。
でもそれらほど必要性が高くない場面で
生き物を殺すことはできるだけ避けたい
というのが、この価値観を共有する人たち
の共通の心理だと思う。


 ls氏はこのような価値観が、合理的な
理由も無しに無批判に通用してしまってる
こと自体を「謎」と言っているのだと思う。
確かに、そんな価値観は単なる“しがらみ”
に過ぎず、時として合理的な社会発展を
妨げるものであるから、唾棄すべきもの
だとの見方もある。実際、古くからある
差別などもこういった価値観の一種だし、
そのような実害を伴うものは打ち破るべき
だが、そうではない実害の無い価値観まで
ひとくくりに否定できるものだろうか。


 もしこれらの価値観が全て無くなって
しまったら、何を美徳として何を規範に
するかという基準が法令以外に無くなり、
非常に殺伐とした世の中になる。仮に
“無益な殺生は避けるべき”という
価値観が全く否定されるとするなら、
その行き着く先は、道行く人が戯れに
犬猫を虐待したり殺したりしても何も
感じない世の中だ。
 そんな世の中は嫌だと思う気持ちもまた、
“無益な殺生は避けるべき”という価値観に
根付いており、ある種“鶏と卵”と言える。
だから、その価値観を完全に払拭できるなら、
結果として殺伐な世の中になっても、その
殺伐さに誰も何も感じなくなるから問題無い
とも考えられる。
 しかし多大な努力を払ってまでそこまで
ドライになりきらなければならない理由が
どれほどあるのか、逆にそのことのほうが
疑問だろう。いま世の中で共有されている
一般的な価値観、そしてそれが掲げている
美徳や規範、いくらそれらが謎めいている
とはいえ、実害が伴わないものであるなら、
それらを強硬に否定してまで得られるもの
とは何なのだろうか。


 そういったことを踏まえたとき、この作家は
このエッセイで、“無益な殺生は避けるべき”
という価値観を広く共有している人たちを
納得させられることを何も書けてない
ように見える。
 「“無益な殺生は避けるべき”だから間引く
よりも避妊手術を選ぶべきだ」という主張に
反対するなら、その主張の実害か、あるいは
その主張を捨て去ることで得られる益について、
説得力を持って語るべきところだが、そこでの
論が「死を感じなければ生にも鈍感になるから、
避妊手術より間引きを選ぶ」程度の主張では、
結局のところ思想の好き嫌い論争の域を出ず、
いま通用している価値観をあえて覆すだけの
重い理由が何ひとつ提示できていない。
 本気で自分の主張を他人に納得させようと
していないのではないかとすら思える。


 “無益な殺生は避けるべき”というような
価値観を偽善呼ばわりするのはわかりやすく
簡単だが、それによって世の中が回っている
部分があることも理解せずに悪態だけつけば、
当然の帰結として、多くの反発を呼ぶだけに
終わるし、実際この作家がそうなった、と。


 ま、MADLAXでも見とけ。