自縄自縛?

大阪のイモ畑の件。

上のエントリでも述べられているとおり、日本では行政代執行に対し執行停止の訴えが行なわれている間にも執行を行なってよいとされています(執行不停止原則)。他方、ほかの国では訴えが起きればとりあえず停止する(執行停止原則)というところもあるでしょう。でも日本では不停止原則が採用されており、今回の代執行は触法行為には当たらないということになります。

 
で、なんでそもそも停止原則ではなく不停止原則を選んだのか、という点について掘り下げて考えてみる。
停止原則のデメリットは、複数の関係者が次々に訴えを起こすことで執行(およびそれに付随する公共事業等)を大幅に遅らせることが可能となるため、その執行が(その執行によって失われる)個人の権利に比してじゅうぶんに大きな公益をもたらす場合においても容易に遅延を生じさせうる点。不停止原則のデメリットは、逆に個人の権利に優先するほど公益が大きくない場合において、訴えのさなかに執行が行なわれることで原状回復不能となり、不当に個人の権利を取り上げる恐れがある点。それぞれのメリットはそれぞれ他方のデメリットを持たないこと、と言えるでしょう。
停止原則の場合には個人側が(善意にも悪意にも)執行を停止する裁量を持ち、不停止原則の場合には行政側が(善意にも悪意にも)執行を強行する裁量を持ち、いずれの場合も性悪説に立てば前述のような問題を引き起こします。したがって、どちらがより悪意が少ないかという比較によってどちらを選択すべきかが決まるかと思われますが、事実として不停止原則が選択されているということは行政側に裁量権を与えたほうがマシという判断がなされている、と考えることができます。(理由としては「行政は多くの国民のエージェントとして公正に振舞うものでありまた常に国民の監視下で制御され暴走が防がれるものである、対して個人には善人も悪人も居て玉石混交であるから」といったところでしょうか。)
すなわち、不停止原則が選択されている根拠としては明らかに「行政は個人の側に配慮してデリケートな運用をし、強硬措置は本当に必要な場合に対してしか取らない(あるいは強硬措置の裁量を保有している事実そのものによって前述のような不当な遅延行為の抑止とするのみ)」という前提を暗黙的に含んでいると言えます。

 
このことを踏まえ、改めて今回の事案を見直した場合、はたしてそのような前提がきちんと守られているか、疑問に思う人は少なくないと思います。現行法下において代執行を強行するのは行政にとっては最も簡単な策でしょうが、それを実行した結果「このように安易に強行するのは不停止原則の濫用である、であれば、停止原則の採用を検討すべきである」といった意見が大勢となればそのように法律改正されることとなり、それ以降は執行の強行は一切できなくなるでしょう。つまり、今ある裁量権をあまり乱暴に振りかざした挙句その裁量権を自ら手放す羽目になるようなことを、今回の代執行でやっちゃったのではないでしょうか。
それによって行政の横暴がなくなるだけならいいのです。しかしもし本当に法律を変えて停止原則を採る、という話になった場合、必要な公共事業にも遅延が生じることにより最終的に不便を甘受することになるのはやはり国民です。形の上では不停止原則でありながら実質的には停止原則と同様に(なるように、行政が)運用する、という今までどおりのやり方が一番バランスが取れていて平和だと思うのですが、今回の代執行においてそこのグレーゾーンにわざわざ踏み込んで停止原則へ舵を切るよう国民に半ば強いる(ここで厳しく当たらないと他所でも同様の強行を許す恐れがあるため)ような形にしたわけで、もう何とも迷惑な話だなあというのが本件についての感想です。