What we're living in

昨日のエントリで書いたvirtualとバーチャルの違いについての余談。

 
はてなキーワードバーチャルの項目では、「事実上の」「実質上の」という意味であり「仮想の」という訳語では意味を誤る、というような、なかなか的確なことが書いてあって、ちょっと感心しました。もっと砕けた表現としては「〜のようなもの」といった言い方もできそうです。

 
少し前にニコニコ動画で、JamiroquaiのVirtual InsanityのPVを真似たミクミクダンス動画が注目を集めたことがあって、そこでのコメントでも“virtual insanity”を“仮想狂気”だとか“バーチャルな狂気”って翻訳してた歌詞職人が居たけど、その訳だとやっぱり意味が伝わりにくいんじゃないかなあと思いました。
このvirtual insanityという言葉はもちろんvirtual realityに引っかけてあるんですが、virtual realityのような技術をありがたがる人々に対して「お前らみたいに新しい技術を無批判に持ち上げる奴らのおかげで、今や俺らはvirtual insanity(=狂気のようなもの)の中で暮らすようになっちまってる(もはやrealityの中でなんか暮らしていない)のだから、virtual realityをもてはやす意味なんてねーだろ、忘れちまえよ」という皮肉めいたメッセージになってるわけです(解釈違ってたらスマン)。
今まで何度も繰り返されてきたアンチ・テクノロジーのメッセージを歌ってるだけで、陳腐なように感じられますし、私自身こういったメッセージに拒否感を覚えたりします。が、実際のところ我々はこの種のメッセージを陳腐と切り捨てておきながら、そのメッセージが警告していたはずの罠へ易々と引っかかってしまうことが少なくない。例えばGoogleストリートビューの問題とかね。その意味では、このようなメッセージが何度でも何度でも繰り返されることは、我々を常に気付かせるために重要なことなのかなーと思います。