そうだ、選挙に行こう

いまだに選挙に行く意味が無いなどと考える有権者がいる件。


そもそも、投票は政治活動としては必要最低限のオプションであり、それ以外にもさまざまな政治活動があります。「自分の一票では世の中は変えられない」と諦念するなら、より積極的な政治活動を行なうという選択肢もあるわけです。いち有権者の取りうる政治活動としては、他に次のようなものが考えられるでしょう。

  • 自分の政治的主張を他の人に伝えて広める。
  • 政治家に自分の意見を伝える。
  • 自分自身が立候補する。

1つ目は、インターネットの発達した日本においては誰でも気軽にできます。このブログでもいろんなことを放言してますが、こと表現規制に関連する論については耳を傾けてくださる方が多く、とてもありがたいことです。そうやって自分の意見に賛同してくれたり参考にしてくれる人が増えるのなら、それは自分自身の一票を大きく上回る政治力を持つに至るでしょう。
「投票したい候補者がいない」という愚痴はあちらこちらで耳にしますが、それに対する答えが後の2つです。
日頃から特定の政治課題に問題意識を持っているのなら、そのことを地元の政治家や政党支部に伝えておけば、貴重な有権者の声ですから(肯定的であれ否定的であれ)何かしら考えてもらえるでしょう。声の大きさが必要なら、それこそ1つ目の方法で多くの人に問い合わせを呼びかけるなどというのも有効です。そうすれば、いざ選挙となったときに、候補者はその課題に対する姿勢・政策を明らかにしてくれるかもしれません。そうなれば投票すべき候補者を選ぶのは容易でしょう。
それでも自分の政治的主張に肯定的な候補者が出てきてくれなかった場合、自分が立候補することにより、自分の手で直接的に政治に関わることができます。もっとも、何かしら後ろ盾が無ければ立候補することすらおぼつかないわけで、実際に立候補するよりもずっと前から1つ目・2つ目の方法を尽くして多くの有権者や政治家などとの間に繋がりを持っておくことが重要になるでしょう。


いずれの方法も、「選挙のときだけ何かする」というような性質のものではなく、平時からそのような活動を行なうことによって政治力を発揮するものです。不断の努力が大事なんですね。
そしてまた、これらの方法が政治力を持ちうるのは、ひとえに「有権者の投票が議員を選出する」という制度に依拠しているということも忘れてはなりません。自分の一票は、重くないように見えますが、それがあるからこそ上掲のような各種の政治活動が実効性を持つのです。


面倒そう?そりゃそうです。政治とはいつだって面倒なものです。しかし、民主主義国家において、国民とは国家という家の主人であって、お客ではありません。たとえ面倒でも主人が家の切り盛りをしなければ、家はすぐにガタがきてしまうでしょう。ボロ屋でも住み続けられるってんならそれでもいいですが。


ここで大事なことは、現状の改善だけが政治の役目ではない、現状の維持までもが政治によってなされるのだ、ということです。「選挙に行ったって政治は良くならないじゃないか」というのはよくある勘違いで、むしろ皆が選挙に行っているからこそ(依然と改善されないままではあるものの)未だに最悪の事態が回避され、そこそこ平穏な日々が暮らせているのだ、と考えるべきです。
私だって、政治なんていう面倒事には関わり合いにならずに、好きなアニメや漫画やゲームのことだけ考えて毎日おもしろおかしく暮らしたいところです。しかしそうやって政治を避け続けていれば、いずれはアニメや漫画やゲームだって政治に脅かされるかもしれませんし、実際にそういう流れは起きている。これは私の例に限らず、みんな何かしら自分にとって大事な関心事が政治の決定により揺るがされるかもしれない立場にあるのです。


「そうめん茹でて食ってるほうがぜんぜん有意義」?もし食料政策の変更でそうめんが高騰したら、来年からは夏の風物詩といえど頻繁に食べられなくなるかもしれませんよ?
「好きな音楽聴いてゆらゆら踊ってるほうがずっといい」?著作権法の改正内容次第で音楽産業が衰退したり多様性が失われたりしたら今よりもずっとつまらなくなるかもしれませんよ?


「選挙に行くよりは/政治に関わるよりは○○してたほうがいい」と言ったときの、その○○こそが、政治によって容易に押し潰されうるということをハッキリ認識したほうがいいと思います。


だいたい面倒くさいって言っても、政治的意見をブログに書き付ける1時間や、政治家にメールを送る1時間や、候補者を調べて選挙に行く数時間を厭うことが、その後の数年にわたって自分の生活や趣味を抑圧する結果になるかもしれないのなら、引き換えにするには安すぎる面倒くささでしょう。だったら私はブログを書くし、政治家にメールするし、選挙にも行きます。これを引き換えにできる人は、よほど目先のことしか見えてないとしか思えません。
それに、独裁政権や軍事政権や無政府状態の国々に比べれば、日本における政治活動は楽な部類に入ります。それらの国々では、声高に政治的主張を行なったり、活動家・政治家として手を挙げたりするだけで暗殺されるかも知れず、また投票に行くことすら暴力の対象となりえます。それを踏まえてもなお政治活動が面倒くさいと言うのであれば、あまりにも平和ボケが過ぎるというものでしょう。
もっと楽な世の中になれよ〜とは私も思いますが、我々は皆もうそういう面倒な場所に放り込まれてしまっているのです。望むと望まざると政治的決定に縛られ、誰も政治からは逃れられない。ならばその中でサバイバルしていくために、抑圧を回避すべく必要な政治活動をしていくしかない。選挙に行くというのはその最も基本的な部分です。



もし自分のことを政治についてバカだと思うのなら勉強するところから始めればいいし、周りの人がバカだと思うのならその人たちと話してみればいい。もちろん、どんなに勉強してもわからないことは多いし、どんなに議論しても合意が得られないこともあるけど、でもそのこと自体は不安になることでも絶望することでもない。なぜなら、未熟な判断をしてしまう人たちの下した選択もひっくるめて全体でバランスを取るのが民主主義という制度の特長だから。
全員が全員バカのままそこに甘んじるようだったらコケるかもしれないけど、自分たちがバカかもしれないことを自覚して努力するのであれば、その努力の中から“正しい”判断が少なからず生まれて、“誤った”判断を(民主主義という制度によって)相殺してくれるでしょう。ここで言う“正しい”とか“誤った”とかは、全ての要素を考慮に入れたいわば神の視点的な話であって、どれがそうであるかは人間には判別できないし、同じ人が常に“正しい”とも限らないけれども、何も考えないで選ぶよりは色々と考えて選ぶほうが正しくなる率は高いはず。そうやって一定数の“正しい”判断が生み出され続けるよう、全員が意識を高く持って様々な政治的課題について考えるようになるべく、政治活動や政治的議論が活発である必要があるのです。
だから、バカであることは別に恥じることではないけれども、バカだからというのを理由に考えることをやめたりすれば、そのことをもってバカにされることはあるかもしれません。


件の人は前掲のエントリを書いた動機について長々と書かれているようですが、「選挙に行くつもりが無い」と口にしたことで他人から怒られたり侮蔑されたりということがあるのだとすると、まさにそういう「バカだから判断保留します/責任取りたくありません」という意識であるとか、あるいは先述したような「将来どんなに抑圧されることになろうが今の面倒のほうが嫌なんです」という見通しの甘さとかを見透かされてなのではないかと思います。


まとめます。
「自分の一票じゃ何も変わらん」 →投票以外の政治活動もできるよ。
「そんなの面倒くさいじゃん」 →その面倒を厭うことで多くを失うよ。
「俺/皆バカばっかだし」 →バカなりに考えることに意味があるよ。


以上。皆さんも投票に行きましょうね〜。