警察は学校じゃない

児童が自分の裸画像を撮影して送ったら児ポ法違反で逮捕されたでござるの巻。
児ポ法の条文上、自分の写真でも有罪になるってのは今までも指摘のあったことで、被写体児童の人権を守ることが目的のはずなのに被害者=加害者になるのはおかしくね?という指摘もさんざん既出ではある。それを警察さん自らが実演してくれた、ということで。「リスカで傷害罪に問われる」とはうまい例えです。


自分の裸画像、あるいはもっと言うと自分の性というのは、どのように扱うかは本人の自由。たとえどんなに軽々しく扱おうとも、それが本人の意思ならば、それはひとつの思想・価値観として尊重される。
問題は、人生経験や判断力に乏しい年少者は、それがいったいどのような結果(利益・不利益の両面で)を自分にもたらすのかに思い至りにくいことから、思想・価値観を完全な自己責任として選び取らせるには危うく、本人にとって取り返しの付かないことになりかねない、ということ。
だから大人社会としては“安全側に倒して”「児童の性は無条件に保護する」立場を採る。子供たちのことを思って、そういったことから子供たちを遠ざけてる、文字通りの父権主義なわけですね。具体的には「児童の裸画像なんか流通させようとする悪い大人は罰して、流通を根絶してやれば、子供たちが関わることも無くなる」と。


しかし子供たちはいつだって大人たちが禁じてることを、大人たちの目を盗んで実際にやろうとする。で、今回みたいな事件が起こる、と。世界的に見ても、子供たち自身による裸画像の作成・流通は問題化してきているそうで、専門用語としてセクスティングとかいう言葉があるとか。
なぜこんな事態が進行しているかというと、具体的な取り組みにおいて「大人側さえ罰しておけば流通は撲滅できる」という誤った判断をしていたため。前述したとおり、そもそもの大前提において「思想・価値観を完全な自己責任として選び取らせるには危うい」としていたのだから、児童自身が軽い気持ちでそのような行為に及ぶ危険性は当然考慮しておくべきだったところを、「子供は純真無垢だからそんなことしない」というバイアスのかかった考え方をしていたために間違えたわけです。


そのような現状を認めたうえで、さあどうするか、という話になりますが、真っ先に出てくるのが「児童も罰しろ」という論。今回の警察の逮捕なんかはまさにその典型例と言えます。
しかしこれは、構図としては「児童には判断が付かない」から「誤った児童を罰する」という形になっており、冒頭にも述べたとおり筋違いのやり方です。判断が付かないがゆえに誤るのなら、まずやるべきは判断力を養うための教育でしょう。「児童には判断が付かない」から「誤った児童を罰する」というのは、なるほど教育的なやり方なのかもしれませんが、それは教育の場でやるべきことであって、警察・司法が乗り出し児童に逮捕歴を負わせてまでやるべきことではありません。今回の事件で警察は「少女らに警鐘を鳴らすため」として逮捕の正当性を訴えていますが、警鐘を鳴らすなら政府への報告書なり市民への啓発活動なりでやるべきであって、そのような目的のために逮捕するってのは見せしめ以外の何物でもなく、児童保護という理念を捨て社会風紀のために当該児童らを生贄にしているようなものです。


教育の効果に対しては懐疑的な立場の人もいるでしょうが、目先の数十万円のために送信した写メールがネットを介して流布し、自分の行く先々に一生ついて回るかもしれない、その危険性を学校の授業なりで説くだけでも、そういう行為に手を染める児童は激減すると思います。日本はインターネットに関する教育が遅れている、そもそも教育者たち自身の知識がインターネット教育をするに足りていない、ということはいろいろなところで言われていますが、こういった児童本人の利害に関わる部分は大きいわけですから早急に取り組むべきです。児童を処罰すべきかどうかについては、そういった教育の取り組みが充実してから考えるべきことでしょう。


日頃から児童保護を訴えておきながら、こういうときに限って口をつむぐ人権団体が多いのもまた辟易するところではあります。今こそ「児童が自衛できるようになるための教育を!」と声高に叫ぶべきだと思うのですが、やはりこういう団体の人たちって「余計なことは教えるな」「寝た子を起こすな」(それも性的なことに限って)といった思想でも持ってるんでしょうかね?それこそ実在児童を危険に晒す考え方だと思うのですが。