ノーマネーでフィニッシュ


1人=1円の取引の思考実験の件。よほど世の中に絶望してたり困窮してたりしなければ「0円」って答えるのが合理的じゃないかと。


無作為というからには自分が死ぬ可能性もあるわけだけど、とりあえずは「自分が運よく生き残った場合」を考えてみよう。生き残れたとすると指定した金額のお金がもらえるわけだけど、お金の価値って交換可能性そのものだから、交換が成立しないような状況では紙クズ同然。極端な場合で言えば、全人類70億人として、自分1人が生き残って70億円を手に入れても、交換する相手がいないのだから全く意味がなくなるわけです。生き残る人数が多少増えたところで状況は変わらず、例えば100万人生き残ったとしても、その100万人が世界中に点在しているなら交換は非常に困難になるでしょう。こういう状況では70億円持っていたとしてもその価値を行使できない以上は意味がありません。
じゃあもうちょっと増やして1億人くらい生き残らせてみましょうか。これでもまだ問題はあって、流通・小売が従前どおりには機能しないでしょう。比率で言うと70億分の1億だから全人類は70分の1になり、流通・小売に関わるマンパワーも70分の1にまで減ることになるわけで、しかし世界の広大さには変化が無いわけですから、物品を輸送し調達するためのコストが跳ね上がることになります。加えて、失われた60億人の貨幣資産が相続なり略奪なりで残された人々に移動し、1人あたり所有している貨幣が増えることになるわけで、しかし1人あたりの物品の需要はさほど変わらないわけですから、大規模なインフレが起きるでしょう。したがって60億円得たとしても、実際には従前の1億円の価値にも満たないだろうし、そのうえ政情不安になったり生活が不便になったりすることまで考慮すると、あまりよい取引にはならないと思います。


したがって現在の貨幣経済に著しい影響が出ない程度ということを考えて、仮に全体の5%、3億5000万人ほどに死んでもらうのはどうでしょうか。これだと、自分が死ぬ可能性も20分の1だし、それで生涯賃金を上回るお金が得られるなら、賭けとしては悪くないように思います。
ただ、20分の1というのは、あくまでも自分が死ぬ可能性だけです。もし自分にとって大切な人、家族とか友人とか恋人、あるいは好きな芸能人や作家や尊敬する研究者がいた場合、それらの人々も全員、20分の1の死に晒されるわけです。さらに、それらの人々にもそれぞれ大切な人がいる。仮に、1人の人にとって大切な人が10人いるとすると、自分にとって大切な人とその人らにとって大切な人を合算すれば100人ほどになり、そこから1人も死人が出ない確率は(1-1/20)^100=0.015なので2%にも満たない。つまり、ほぼ間違いなく、自分にとって大切な人が死ぬか、その人にとって大切な人を失って悲しむか、どちらかを目の当たりにすることになり、そしてそれを起こしたのは他の誰でもない自分なのだ、という事実を突きつけられます。金のために人を殺した実感は確実に得られるでしょうね。
もっと金額を減らせば、自分の引き起こした死が自分の直接の観測範囲の中に見つかる可能性も減るでしょうけど、そこまでいくと、数千万とか数百万ぼっちのために、同数の人間を殺すのか、自分の命まで賭けるのか、という話になり、結局やる価値は無くなります。


結局のところ、銀行強盗なり誘拐なりをするほど追い詰められた人間でもなければ、この取引に応じる理由は無いんじゃないかと。


逆の立場で、自分がこの提案を持ちかけた神様だったとしたら、そういう人間を選別するのに便利な設問だなあとは思うかも。この質問にある程度まとまった金額を答えた者について、本当に金に困窮してるようなら施しをし、考え無しだったら教え導いてやり、邪悪だったら罰する、みたいな。その第一段階の質問としてはよくできてるよね。
あるいは潔癖な神様なら、この質問に対して0円と答えなかった者だけを問答無用に殺す(殺された本人には「運が悪かったですね」で済ませる)なんてこともあるかもしれない。


そう考えると、いずれにせよ、0円と答えるのが最も無難で安全です。答えとしては平凡すぎてつまらないですけどw