二次創作に規範は無い


二次創作に大切なことが何なのかは知らないけど、「キャラは凄くいいのに物語が残念」ってのは結構あるでしょ。特に昨今はキャラ萌えで人気を引っ張ろうとする作風が多いから、登場するキャラそれぞれのパーソナリティを優先して展開したら、キャラがてんでバラバラに動くことになってしまって、結果的に話全体としてはとっちらかったまま風呂敷が畳めませんでしたor無理やりに畳んじゃいました、みたいなパターンが起こりがちで、そういう場合は物語が本当に残念なのにキャラ描写は物凄く細やかという作品になる。
言い換えると、キャラ達が個々の人生を歩んでいることはきちんと描写できているんだけど、それらの人生がうまく絡み合っていかず、1つの大きな物語として収束せずに、納得のいくオチがつけられませんでした、というような、群像劇のできそこないみたいなもの。実在の人を追いかけたドキュメンタリーを撮るような場合その人に人間的な魅力がどんなにあったとしても編集がクソならドキュメンタリーとしてもクソにしかならない、というようなことを考えればわかりやすいかな?その人の人間的魅力は画面を通じて伝わってくるんだけど、ドキュメンタリーとして全編通して見たとき何が言いたいのかわからない、何を見せたかったのかが解らない、みたいなね。
そういう作品については、普通に「キャラは魅力的だけど物語がダメダメ」って評価になるでしょ。だから「物語がつまらなければキャラだって当然つまらないに決まっている」というのは論理的には誤りなのではないかと。


それを踏まえると、キャラだけは魅力的だったからそれを借りて別の物語を展開するってのもアリだとは思う。というか、エロ非エロにかかわらず、二次創作ってのは元作品とは別の物語を展開するものなのだから、そこを否定したら二次創作全般の否定になるんじゃないのかな。「元作品の物語はキャラ達の人生なのだから、物語を軽んじることそれすなわちキャラ達を軽んじることに他ならない」と言うのなら、突き詰めれば、元作品とは別の結末を描いたif的な二次創作すらも、元作品とは別の選択を各キャラにさせてるという点で「元作品におけるキャラの選択=意志をないがしろにしている」わけで、そのキャラの人生の軽視になってしまいます。もちろん「だからそういうifストーリーも認めない」(元作品の幕間を埋めるような話だけしか二次創作として認めない)という原理主義もありえますけど、そこまで創作の幅を狭めてまで主張しなきゃいけないことなのか、ちょっと疑問に思います。
しばしば元作品の読解においてすらキャラの心情についての議論が巻き起こったりするように、そもそも受け手のそれぞれが抱いているキャラ像そのものにも差異があり、そして二次創作にあたっては二次創作者の抱いているキャラ像が反映されるのであるから、(たとえ元作品の幕間について創作したものであっても)その二次創作の内容が他者に受け入れられるとは限らない。というかそこを巡っての論争こそ二次創作界隈ではありがちですが、それは二次創作者がどんなに元作品を尊重しているつもりであっても、元の作者ではない者が元作品とは違う物語を作り出している(だから“二次”“創作”って言うんでしょ)以上はどうしたって起こりうる問題であって、結局は「元作品中のキャラ達の描写から遊離しすぎていないかどうか」という、程度問題、それも、個々の受け手の主観に大きく依存した好悪・美意識の問題に過ぎないんじゃないでしょうか。


もちろん私も、「この作者、人気作品の同人でウケをとるためだけに、元作品を斜め読みした程度だろ」的な“愛の無さ”を感じることはあります。私と同じように感じた人はその二次創作をもてはやしはしないでしょうし、その作者と同じような感性で元作品をただ消費できればいいと思っている人たちは逆にもてはやすでしょう。
そのとき前者が後者を嫌うのは自由ですが、それは美意識や矜持の問題であってどちらが正しいという話ではないし、自分達のその嫌悪感を正当化するために「物語はキャラの人生で云々」などという理屈を持ち出して攻撃するのは(上述したとおり)流れ弾があまりにもいろんな方向に飛んでいってしまうのであまりよろしくないだろうと思います。
どうしても気にくわない二次創作に対しては、乱暴な一般論を振りかざすのではなく、「この二次創作者はかくかくしかじかの点で原作が読解できてないからヌルい」「内容的にわざわざこの作品の二次創作としてやる理由が無い」等々、個別に批判を加えるのが適切なのではないかと。
ただまあ元のTLでも述べられているとおり、気に入らない相手を叩くよりは、気の合う者どうしで楽しむほうがずっと有意義なので、よほどのことが無い限り気に入らないものは見なかったことにする、というのがハッピーなオタクライフを続ける秘訣ではないでしょうか。