むしろそっちのが無理


とある心理学者の表現規制反対運動についての主張が注目を集めてるようで。これはこれで頷ける部分もあるけど、総体としてはラジカルすぎて、むしろこのような立場から規制反対運動を張ったりしたら(今以上に)一般の人の支持を広く得ることは難しく、敗色はずっと濃厚になると思う。


肯定できる部分としては、「表現の自由は自分が不快になる表現も守るものである」という点。
2ちゃんねるなんかでよく「自分は規制に反対だが、この漫画は過激だから、これは規制すべきだし、そうすれば他の表現への規制は免れる」といった主旨のことをしきりに言う人がいるけど、あなたがそうやって不快に思う表現も公権力から守るのが表現の自由です。自分の快/不快のラインに合わせて都合のいいように規制を実施させようとするのは不誠実だし、その目論見がうまくいくと思ってるなら公権力なめすぎでしょ。
もし自分にとって不快な表現があり、その流通の仕方に不満があるなら、公権力による規制に頼るのではなく、表現者に直接その文句を伝える努力をすべき。というのは既に書いたとおり。


同意できない部分としては、「有害な表現であっても表現の自由で守られるべき」という点。
何をもって有害とするのかが未定義のまま話が進んでしまったために議論が錯綜しているように見受けられますが、少なくともこの人は誹謗中傷や脅迫などといったレベルの実害を伴う“表現”であっても守られるべき、という立場のよう。そのレベルの実害をもって有害な表現と定義するなら、それは具体的な人権侵害を想定するわけだから、前述の快/不快の話とは全く別次元の話のはずで、「表現の自由は自分が不快になる表現も守るものである」という主張よりももっとずっと大きく踏み込んでいる。ぶっちゃけ、人権侵害を伴う表現さえも規制するなと言ってるわけだからね。
「実害のない表現の自由は守る」という立場で表現規制に反対している人々(含む私)もまた、何をもって有害とするかについては直接的な人権侵害の有無を基準にしてる場合が多いけど、その意味で表現が有害たりうる=直接的な人権侵害を伴うためには、特に犯罪の誘引においてそのように振舞うためには、その表現に触れた者の犯罪性を助長する=強力効果論*1が成立しなければなりませんが、今のところそれは証明できてないという状態にある。だから、「現に人権侵害を伴ってることが証明されてないのに規制する妥当性は無いだろ」という根拠で反対しているわけです*2
アニメや漫画やゲームに関心のない人たちにも受け入れられる主張は、前者よりも後者でしょう。「有害な表現であっても表現の自由で守られるべき」というポリシーは、市民一人一人が引き受けなければならない負担が大きすぎる*3だろうし、そもそも人権侵害にあたる行為は犯罪として裁かれるべきであろうというのが一般的な価値観だからです。


なので、このような考え方は、「そういう考え方もある」程度の理解で留めておくべきものであって、他者に理解してもらうための政治運動の軸にはなりえないでしょう。

*1:引用元でいうところの「強い効果」論。

*2:それ以外の反論についても以前のエントリに書いたとおり→http://d.hatena.ne.jp/deathno/20090617

*3:例えば名誉毀損罪が刑法に規定されていないとしたら、今よりも誹謗中傷についての抑止の少ない社会になり、誰もが名誉毀損という具体的な人権侵害を及ぼされるリスクが高まるし、裁判を起こしたとしてもそれを人権侵害として認定させるためのコストが高くなるでしょう。