子供だって○○したい!


エロゲの18禁規制に納得のいかない御仁がいるようで。


そもそも、一般論として、「規制も無しに野放図にそんなことをされると看過できない悪影響がある」という社会不安・懸念があったとき、国がその要請に応えて是正するための方策として行政命令や立法措置が採られる場合があります。そういった方策が採られる前に、業界の側が自重する意志を示し、それらの方策を無用のものとする、というのが自主規制の役割です。
本来的には、一番最初の段階で果たしてその社会不安や懸念自体に誤りが無いのかどうか、何らかの方策が必要だとして行政命令や立法措置の内容が妥当なものなのかどうか、をきちんと議論することを通じて穏当な落としどころを探るのが政治の役割ですが、実際の政治の場では、理屈としての正しさよりも、より多くの票/政治資金/権力に繋がることのほうが、政治家や官僚の判断として大きな比重を持ちがちで、そうなると利害関係者の間でのパワーゲームになってしまいます。


いわゆる性的表現の分野で言えば、性的表現に携わる作家や企業に対して、性的表現を忌避したり嫌悪したりする層や、そこまで極端ではないにしろ性的表現を未成年者が視聴することをよしとしない層のほうが圧倒的に大多数であり、パワーゲームはほぼ一方的になる。したがって、作家や企業の側が、それら多数派に譲歩した内容の自主規制を敷くことで、それ以上に踏み込んだ制限を課されないようにしている、というのが実情です。
なので、作家や企業にしても、個々の想いとしては、未成年者にも性的表現はもっと解放されるべきなのではないか、という立場の人もいるのでしょうが、それを真っ向から主張して戦えるほどの力が無く、そして非力なままにそんなことを主張すれば逆に多数派の反発を受けて性的表現全体にもっと厳しい制限が課されてしまうかもしれない、といった理由から、未成年者への性的表現の制限緩和を求める声をあげにくいのだろうと思います。


未成年者という一番の当事者が不在のままにこのような状況が作り上げられてるのは、確かに当の未成年者からすれば不当なように感じるでしょう。この点に関しては性的表現に限ったことではなく、政治において子供の意志を無視する、特に子供自身に関する政治的決定に関与させない、というのが常態化していることがもう1つの大きな問題です。
民主国家といえども選挙権や被選挙権には一定以上の年齢を求めるのが普通で、その理由は、政治的判断を下すに十分な知識と経験を得るのにそれだけの年齢が必要だろう、ということです。しかし、そういった理由で政治に関与する権利を取り上げるのであれば、そうやって取り上げられた者の利害について、政治に関与する権利を持つ者が十分に配慮するのが道理でしょう。つまり子供が直接的に政治に参加できないかわりに大人がその代弁者・代行者たるべきで、当然その際には子供の意見にきちんと耳を傾けるべきだし、そこで起こる大人と子供の意見の食い違いにはきちんと議論を尽くしてお互いに納得していく必要がある。しかし実際には、子供のためと言いつつ大人の都合を押し付けるだけの政策が横行していて、そのような状況を改善するために、例えば子どもの権利条約が制定されたりしているわけですが、日本ではそれを批准していながらもその理念が蔑ろにされていたり、あるいは正反対に子供の権利を制約するための根拠として振りかざしているような傾向が見られるわけです。
大人たちが性的表現の年齢制限を求める社会的風潮というのは、まさにその傾向が如実に現れている一例と言えるでしょう。「子供だってエロいものを見たいんだ」という子供達自身の声に対して、規制を是とする大人達は誠実な応答を行なっていない。子供の権利を制限するのであれば、その当事者たる子供にこそきちんと納得のいく説明ができなければいけないのに。


子供を大人の従属物であるかのようにみなす風潮が正されないかぎり、こういう傾向は続いていくでしょう。子供の自由意志を尊重できる大人が増えることによってしか、この状況は打破できません。未成年者の皆さんにおいては、いま我慢を強いられることに不条理を感じるかもしれませんが、であればこそ、その今の気持ちを忘れずに、成人して以降も子供の気持ちを慮るような、「もう自分は大人になったんだから子供の気持ちなんて配慮しなくてもOK」などと決して考えないような大人になってください。