思想善導・国民教化


またまた内心を規制したい人がいるようで。
人間って基本的には自由であるべきで、でも他者危害だけはお互いに禁じられなければならないから、自由を縛り過ぎることなく他者危害だけを禁じられるよう必要最小限の構成で法律を作る、というのが自由主義社会の根本になってて、だからこそ誰が何を頭の中で考えていようが(それが言動という形で表出しないかぎり他者危害にはならないから)それは自由だろ、ってことだと思うんだけど。


というか、具体的な危害が加えられないかぎりにおいて、他人が何をどう考えてるかについて何故そこまで干渉したがるのかが逆にわからないわ。実際に他者危害となる言動に及んでいないのなら、どんな主義・主張・思想・信条・嗜好を持っていようがその人は無辜の市民でしょうに。
最低限「こういう主義・主張・思想・信条・嗜好を持つ人間はこういう犯罪を犯しやすい因果関係がある」ということが科学的に証明されないうちから、特定の主義・主張・思想・信条・嗜好を持つ人間を犯罪者予備軍扱いするのは、普通に差別、控えめに言っても偏見だと思う。たとえそれがどんなに反社会的な主義・主張・思想・信条・嗜好であったとしても。


さらに言えば、「こういうことを考える奴は犯罪者予備軍」という風潮が蔓延し、国や自治体の政策にまで影響を及ぼすようになると、その進む先は思想統制だからね。最初は「悪そうな奴を取り締まるだけ」という善意のつもりでも、その“悪そうな奴”の根拠が曖昧(科学的証明の不在)なまま法制度として作られてしまえば、そこから先はいくらでも恣意的に運用・規制範囲の拡大はできてしまう(最初の制定時点で根拠が曖昧なら、曖昧な根拠で運用や規制範囲が変更されることに反対できない)はずだからね。最終的には「政府や官僚にとって都合の悪い思想を弾圧するための制度」に行き着いてしまう。


だから、未だ他者危害に及んでいない無辜の市民に対して「お前の内心は悪だ、だから断罪する」と主観だけで迫ることは、同じように自分が主観だけで迫られたとき反論する術を持たなくなるという危険性に気付いたほうがいいと思います。自分だけは常に安全圏にいられるなんて思わないほうがいい。