愛≠セックス


小学生どうしがセックスして云々かんぬんとか。これ何が一番ダメかってーと、「セックスするのが愛の証だ」みたいな世の中の風潮なんじゃないかと思ったり。


大前提として、セックスには様々なリスクが伴うってことについては誰も異論の無いところでしょう。リスクってのは、それにまつわる疾病の罹患だったり望まない妊娠だったりね。そうすると、治療なり中絶なり堕胎なり、あるいは出産なりで、身体的・精神的・経済的・社会的に大きな負担を負うことになる。
そういうリスクがあるから、セックスをするからにはその結果も考えたうえで決断すべきだし、お互い相手に対する責任をきちんと取るつもりで臨むべきこと、なわけです。


このような考え方が世に流通して「愛し合っている(=互いに責任を取るつもりがある)からセックスしてもかまわない」という価値観が醸成されたのではないかと思うのですが、そこからさらに主客の転倒が起きてるわけです。すなわち「セックスするほど私達は愛し合っている」とか「セックスすることが愛し合っている証」というような。
最初はセックスするための条件として愛が位置付けられていた(それがリスク回避のための知恵だった)ところ、いつのまにか、愛を確認するための手段としてセックスが用いられるようになってしまっている。「愛があるかどうかを確認するために積極的にセックスしたがる」としたら、セックスのリスクに対して備えるどころか全く無防備も同然なのではないかと。


冒頭の小学生の一件なぞまさにこの罠にハマってしまっているように見えます。お互いまだ身体的に未成熟であることを考慮すればリスクが非常に高いことは明白で、であるならばセックスをしないという決断こそがむしろ愛であろうと考えられるべきところ、お互い同意のうえのセックスならば正しく恋人の自然の営みだという視野狭窄に陥り、結果的に相手に対する無責任なセックスに至っちゃってる。
成人の場合でこういう考え方に陥っちゃうと、自由恋愛市場においてヤリ捨てる相手を探してるような連中にとっての絶好のカモにもなりかねない。そういう連中からしてみれば、甘く愛をささやくだけでセックスさせてくれる相手だってことになるわけだからね。セックスありの自由恋愛という価値観を支持するのは個々人の勝手ですけど、相手の本性を見抜けずに食われて一方的にリスクを負わされる、そこは危険と隣り合わせの弱肉強食の世界だって認識は持っておかないと危険です。


そういう意味では、婚姻関係にある相手としかセックスしない、という方針はそれなりに合理性があるとも言えます。言い方は悪いですが、結婚という制度を「お互いが相手に対して責任を取る」ということの踏み絵として利用し、ヤリ捨て目的の連中に対するハードルを上げてるわけですね。
人を見る目が無かったり、人間関係における駆け引きの巧者でないと自覚したりしてるなら、古臭い考えと言われようとも(自衛のために)こういう身持ちの堅さを貫くほうが良いかもしれません。誰もが恋愛強者になれるわけでもないですし。