素朴さ≠正しさ


原田ひとみ生活保護がらみの発言の件、全体として見ても、やっぱ当人の発言には漠然とした誤解と偏見に満ちてる感が否めない。


いちばん槍玉に上がってるのはこの発言ですかね。


既に突っ込まれまくってるけれども、まず指摘しておくべきは「外国の、若くて元気に見える方」ってのが彼女個人の主観に過ぎんだろう、ということ。その人の外見からだけでは国籍も疾病の有無も断定なんてできないだろうし、ましてその人の経済状況や労働に関わる事情なんてわかりっこないと思うんだけどなあ。もちろん役所の審査が必ずしも完璧とも言えないけど、しかしあえて個別具体的なその一例に言及して不正受給の可能性をほのめかすのなら、それが不正受給であるとの確たる証拠を挙げないかぎり、根も葉もない陰口を言ってるのいっしょだよ?
しかもそこには(あえて断言を避ける言い回しになっているけれども)その外国の方とやらが生活保護を受けることについての否定的感情が含意されてしまっているし。そのうえでの

このつぶやき。いやアンタ思いっきり主観的に「この人はもらうべきじゃない」オーラ出してたじゃん、ていう。言った言わないじゃなくて、その思考パターン、「私はこういう印象を持った」ってだけのことを疑いもせず裏も取らずに根拠としてしまう思考パターンの危険性に気付いて、改めたほうがいいんじゃないかなあ、と。


加えて言えば、仮にその人が不正受給だったとしても、その一例だけでもって全体傾向を現してるわけでもないしね。全体から見ればごくごくわずかな不正受給の事例があって、たまたま運悪く(運良く?)彼女がその現場に居合わせた可能性はある。もちろんその場合にはその一例についてのみ不正受給として非難しうる(しかしそのためには確たる証拠を挙げるべきだってのは前述のとおり)けど、その一例をもって「生活保護なんて不正受給ばっかりだ」などと全体の傾向がわかったつもりになるのも飛躍しすぎ。
自分が何かしらの事象を見聞きしたり経験したことで社会を概観できたかのような気分になることは誰しもあるとは思うけど、そこで立ち止まって、本当にその見方が正しいのかどうか、統計などのデータに当たったり専門家の意見に触れるなどしてきちんと調べることが大事です。自分が立ち会ったのは単なる例外だった、ってことも往々にしてあるわけでして。


生活保護についてもう少し踏み込んだ話をするなら、「困窮してる人に行き届かせる」ことと「不正受給を減らすべく審査を厳格にする」ことは、トレードオフの関係になってる。
そもそも生活困窮者の生活実態ってのも個々人で抱える事情は異なるだろうし、その困窮度合いにしてもあるところで突然に白黒クッキリ分かれるわけではなくグラデーションみたくなってるはずで、そこに受給可・不可のラインを引くということは簡単なことじゃない。だからこそ審査があるわけだけど、そこで審査を厳格にするってことは、つまるところ受給の要件を事細かに決めるってことだよね。そうやって要件が細かくなれば、不正受給を試みる輩のハードルが上がることは確かだけど、でも同時に、その要件の策定において想定された困窮の在り方から外れるような生活を送ってる困窮者は、要件に該当しないとして受給資格を得られなくなる。逆に要件をあまり細かくせず、担当者の裁量による受給を認めやすくした場合、不正受給を試みる輩にとっては騙しやすくなる反面、より多様な困窮者に行き届きやすくなる。
なのでこれは、「不正受給は極少だけど本当に必要な救済もされにくい社会」と「より多くの人が救済されるけれども不正受給もそれなりにある社会」との間で、どこらへんにバランスを取るかの話なんじゃないかな。個人的には、たとえ不正受給が多かろうとも、より多くの人が救われる社会のほうがいいと思いますけどね。