反動

日教組批判言説について
後半はおおむね理解するけど、前半ではじゃっかん論理の飛躍があるような。

もし「日教組が日本の教育をダメにしたせいで、日本の子どもは全部ダメになった」というのが本当なら、その論を立てている当の本人が日教組によって知的に致命的に損なわれたはずであるので、その人の言うことはたぶん支離滅裂であり、その議論には信憑性がないことになる。
逆に、その人の主張が正しいなら、彼は正しく推論ができるほどに知的だということになる。先天的才能や後天的な努力や「もののはずみ」でその影響が簡単に払拭しうるものであるならば、日教組イデオロギー的バイアスは論ずるに足るほどの力を持っていなかったということになる。

つまり「ある教育を受けた人間がその教育にダメ出しするとき、その言説そのものの正当性に対しても同時にダメ出ししてることになる」ってことなんだろうけど、それってその言説を述べている人の経時変化を無視してる。
この種の“ダメ出し”をする人たちって「かつてある宗旨に染まっていたが、ある契機にそこから脱却することができ、その契機をもたらしてくれた新たな宗旨に宗旨替えし、今は元の宗旨を批判する立場にいる」という経緯を自称していることも少なくなくて、例えば日教組批判なんかでも「私は社会に出ていろんなものを見知ってから、日教組教育の酷さに思い至りました。これからの子供たちにそのような遠回りをさせるべきではない。」とかいう論がありうる。その意味では

陰謀史観」をそれなりに説得力のあるものにしたいと望むなら、人はその「陰謀」によって、どれくらい自分自身の明察が損なわれていたかという「おのれのバカさの構造の吟味」から始める他ない。

この「おのれのバカさの構造の吟味」を暗黙的に済ませてしまっていると見るべきではないでしょうか。言い換えるなら、(宗旨替えする前の)過去の自分にその“おのれのバカさ”を全て負わせることで、(宗旨替えした後の)現在の自分の言説に“おのれのバカさ”の疑義が波及することを抑制する戦略。そんな簡単に“おのれのバカさ”が治るはずも無いだろう、という指摘は、そっくりそのまま、治すために多大なコストを支払う羽目になったという主張の信憑性として逆利用できる。
こういう立場を取る相手に対して「あなたが否定すればするほどに、その教育を受けたあなた自身の言説を否定することになる」と空中戦をしかけたところで、「そうなんですよ、かつての私はバカだったんですよ、でも今は違うんです、幸運にもそこから脱却できました、脱却のための代償も少なくなかったです、その前後の落差を知る私だからこそこの批判が正当性を帯びるんですよ」などど、かえってその立場を強化する方向に進むと思う。
結局は、ものすごく泥臭いけど、元の宗旨と新たな宗旨との間でどちらのほうがよりまともか、を是々非々で論じるしかないんじゃないかと。