理系こそ現文は大事

国語を勉強する意義について
人間の思考は言語によって支配されてる、ゆえに言語能力が思考能力を左右する、というのはありがちな言説だけれども、理屈の上だけではなく実際にそのとおりだと思う。大学で数学を専攻した自分にとって、それまで学んできた数学と同じかそれ以上にそれまで学んできた国語(現代文)が役に立ったという実感があったし、同期で自分よりも入試のときの数学の成績がよく「暇を見ては赤本の東大の数学の問題をパズル代わりに解いてましたよ」などとうそぶいていた人が大学数学の初等で(主に定義の論理的理解において)つまづき脱落していく様子なんか見てなおさら強くそう思った。論理的思考能力は国語の授業を通じて鍛えられる部分も少なくない。
「でも国語の授業って求められてる答えに関して空気を読むスキル鍛えるだけじゃん」みたいなことを言う人もいるけど、学校で習う国語は基本的には理詰めで導ける“読み”についてしか問わない。もちろん感覚的な空気読みスキルでやり過ごせるだろうことも否定しないけど、本来そこで鍛えられるべきは理詰めで意識的にその解を導き出す思考技術だと思う。
同じような勘違いの例として、昔どこぞの新聞の投書欄に「子供の国語の授業で、指示語に徹底して印を付けさせそれが何を指しているか答えさせる先生がいる、けしからん」とかいう意見が載ってたことがあるけど、国語って別に「きれいな文書を読んできれいな気持ちになりましょう」なんてものじゃないし「考えるな、感じろ」といった類のものでもない。仮にその文書を読むことによって何か心を育むようなことを期待するにしても、そもそもその文書の内容が正しく理解できていないのでは、誤解によって心を育むことになってしまう(それはそれでよいのだ、という立場もあるだろうが)。したがってまずは文書を正しく理解することが肝要なのであって、その教育目的においては、指示語1語1語について問うような授業は基礎練習として有意義なことだろう。
物持ちのいい人なら、小学校高学年のころの国語の教科書を掘り出して読んでみるといいかも。国語の教科書って各作品の末尾に設問があったりしたものだけど、多分いま読んだら容易に回答できるようになっているはず。そのように文書を正しく読めるようになったことが、学校教育における国語の授業の成果なんじゃないかな。