東のエデン感想


というわけで今日上映初日の「東のエデン 劇場版II Paradise Lost」を見てきましたよっと。前回は行き当たりバッタリだったので豊洲まで足を運んだ挙句に待たされるハメになりましたが、今回は早めに家を出て午後一の回のチケットを劇場で購入したので、そこそこの席を待たされることも無く確保することができました。
しかしよくよく考えると、毎度毎度東京まで出てきて映画を見るって、往復の交通費込みだと1回あたり5kくらい出費してることになるのね。日本の景気に貢献してる私エラい!ということにして深く考えないでおく。


以下ネタバレあり。




ぶっちゃけ残念な出来。


前回もそうだったけど、個々のシーンの魅せ方は巧いと思うんだよね。咲と滝沢の母との対話とか、自分が総理の実の息子かもしれないという切り札をあえて捨てて演説に臨むシーンとか、ラストのキスシーンとか。で、伏線もちゃんと消化されてはいて、一連の事件も一応の幕を下ろしてはいる。では何がダメなのかと言うと、これまで相当な大仕掛けで話を進めてきておきながら、話の落とし方が弱すぎる。つまり竜頭蛇尾な内容になってしまっているんですよね。


テレビシリーズからのメインテーマとして、この国における“ニート”と“アガリを決め込んだ世代”の対立というものが描かれてきているわけで、ずっと見てきた視聴者からすると、その対立を発展的に解消する何らかの答えが今回の映画の中で提示されることを期待すると思う(少なくとも私は期待してた)んですが、それがあの滝沢君の演説「上の世代は今までの貯蓄を若い世代のために吐き出せ!」だとすると、あまりにも肩透かしなのではないかと。
例えばこれが5年前に公開されていたなら、時代の空気を先駆けていたという評価になるかもしれないけど、いまどき「上の世代が貯めに貯めた金を吐き出させろ」なんて主張はイデオロギーがかった2ちゃんねらーの常套句になっているようなものであって、そこいらじゅうに転がってるありふれた現状認識の1つにしか過ぎず、それを映画の結論として出されてもなあ、という気分。
神山監督へのインタビューの中で言っている「基本的には2011年を意識して描いたのですが」「予想以上に世の中の流れが早かった」「思っていた以上に、簡単に追いついてきて、追い抜かれて行っちゃった」というのも、もしかするとそういうこと(作品中で描こうとしたメッセージが、公開時には既に陳腐化していた)を指しているのかもしれません。しかしそのメッセージそのものも劇中では繰り返し描かれてきているわけですから、作品全体の結論としてはもっと踏み込んだものを提示して欲しかった。


さらに言えば、メタな視点で考えたとき、「上の世代が貯めに貯めた金を吐き出させろ」というメッセージは、この映画の主な視聴者層であろう20代〜30代に向けて発しても無効なものなんだよね。主な視聴者層から逆算したらむしろ、「どうやって上の世代とうまくやっていくか」あるいはもっと端的に「どうやって上の世代から金をむしるか」ということをメッセージとして発信しないと、単なる空回りで終わっちゃう。
上掲のインタビューで監督は「世代が互いに断絶するのではなく、繋がっていくことによって新たな深みを手に入れていけば、まだまだこの国は捨てたもんじゃない。そんなことを感じてもらえたらいいな」とも言っていて、これはすごくいいメッセージだと思うんだけど、作品の中に描き切れてないというか描き込まれてないんだよね。それらしいモノとしては板津が抜け穴を通って脱出する際に呟いた一言くらいだけで、どうやって(世代ごとに閉じるのではなく)世代どうしが連帯していけるのかについてまでは踏み込んで言及できていないという。
作品の結末も、滝沢君が再び姿を消した後、(滝沢君がテロをほのめかすようなメッセージで一石を投じたにもかかわらず)上の世代はニートをないがしろにしニートは自分たちだけの経済圏を構築し始めている、という結果が描かれていて、それはそれで監督の志向するリアリズムなんだろうけど、世代どうしの連帯というのとは対極(=世代の断絶)になってしまっている。これがバッドエンドとして強調されていれば確かにその対極として「世代どうし連帯すべき」というメッセージも浮き彫りにはなるでしょうが、実際の描かれ方としては「世は事も無し」的で、そういったほのめかし方にもなっていない。


結局は、滝沢君が頑張って煽ったんだけどシニシズムにまみれた国民は各々の世代で閉じこもり世代どうしでの連帯なんかしませんでした、でも咲ちゃんは何かが変わったと信じていたいんです><という、全くカタルシスの無い終わり方。「1つの事件は終わった、しかしこの国は今後どうなっていくのであろうか」っていう終わり方は攻殻機動隊っぽいなあとも思うけれども、しかしこの作品に求められているのはもっと別の方向性 ― リアルな問題を革新的な方法で解決するという飛躍、その楽観的なビジョン ― つまるところロマンチシズムなんじゃないかと。
もし物語をリアリズムに着地させるなら、滝沢vs物部=ロマンチストvsリアリストにおいて後者が勝利する話にしかならず(そして実際に物語はそのようなリアリズムに着地しており、滝沢君の発した「上の世代は金を出せ」との提言を実際に形にしたのは他ならぬ物部の進めた相続税100%策だった=実効性の点では物部が勝利している!)、そうなると滝沢君は本当にタダの狂言回しでしかなくなる(実際に物部はほとんど最後まで滝沢君を出し抜いて利用していたように見える)わけだけど、ロマンチストはそういう狂言回しという損な役回りとして社会に貢献してくださいね、ってのはちょっと夢が無いというかつまらない。
あるいは2人のその後に見るように、リアリストはしがらみに絡めとられて殺され、ロマンチストはタフに生き残って次の時代にも風を起こす、とも見ることができるけど、そういう見方をした場合「滝沢君の戦いはこれからだ!」という終わり方でしかない。つか、ED後のエピローグで滝沢君は亜東爺に接触し何らかの策を実行しようと持ちかけているけど、これなんかまさしく、描かれるべき解決編を物語の外に放り投げてしまった、打ち切り漫画の終わり方そのものだよね。滝沢君にアイディアがあるのなら作中においてそのアイディアで勝負してきっちりケリを付けて欲しかった、というのが多くの視聴者の期待するところだったのではないでしょうか。


つまり、世代間の対立という切り口自体が既に陳腐で、それをメインテーマに掲げる以上はそこからさらに踏み込んだ内容(特に対立の解消というイノベーションが描かれること)を期待されていて、滝沢君=ロマンチストがそれを体現するロマンチシズムとして物語は終わるのだろうと思っていたんだけど、全く当ての外れた結末だったよ、といったところ。


細かいところでの伏線の張り方とかは本当に凄いので、物語という大枠でコケてしまっているのが本当にもったいない作品でした。でも薄着の咲ちゃんはエロカワイイし黒羽さんはエロカッコイイので、全くの無駄だったとは思わない(オイ