ちょろい大学観すなあ


京大入試のカンニングの件について、『「ネットワーク&ITの時代において問題を解く力」がある学生を入学させたいなら、こういう人まさに合格させるべき』とかコメントしちゃう人がいる件。


ちょっと前に「無意識でこなせる基礎だけがその人の土台となる」というエントリが評判になってたけど、大学での勉強ってのは専門的な知見をそういう種類の基礎として学生に叩き込み、その先の研究に携わる際の土台とするためのもの。ネットで調べればいいやってノリでそれを怠れば、無意識でこなせる基礎がスッカスカになって、先行研究の論文を読むだけでさえ専門用語をいちいち意識的にネットで調べることに終始してしまい、新しい研究課題を見出すどころか既存の研究の位置付けすら読み誤ったりする。
つまり、高度なことをやろうと思ったら、その前提となる知見を自分の基礎として血肉にできてなければ成果なんて出せないってこと。大学の研究ってのはそういうレベルのことをやってるんであって、ググりましたーSNSで質問しましたー答えが返ってきましたーハイ完成しましたーなんて類のもんじゃない。インターネットが全く役に立たないわけじゃないけど、少なくとも、ネットやSNSに明るいことなんかよりも、スタンドアロンな問題解決能力のほうが遥かに重要だと断言できる。


大学入試もその延長で、「うちの大学では、こういった基礎が無意識にこなせるようでないと講義についていけませんよ」という判定を下してるわけで、そうなると問われるのはやはりスタンドアロンな問題解決能力になる。
もちろん、その試験で課される具体的内容には議論があっていいとは思います。「合格者を絞り込むために試験内容が本来の主旨を超えて複雑化しており、その対策としての受験技術が磨かれるようになっては本末転倒だ」みたいな批判も当然あるとは思います。しかしながら、入試の根幹として、スタンドアロンな問題解決能力を問うということは大学にとって本質的なことであって、それをあたかも時代錯誤的あるいは権威主義的なものに過ぎないと捉えるのは、よっぽど学問を甘く捉えてるとしか思えませんね。あるいは大学を職業訓練学校などと混同しているか。


仮に、大学入試ごときでカンニングするような人が合格できたとしても、大学に入ってからの講義で必要な基礎を叩き込む過程に耐えられないでしょうから、分不相応なのは間違いないと思います。普通に放校処分でいいんじゃないでしょうか。