このサボりは国を滅ぼす


大津市の事件(あえていじめとも自殺とも書かない)について、いわゆる祭・炎上のような状況がネット上で大きく盛り上がっており、そしてそのような状況を「私刑はよくない」という立場から諌めようとしている人達も出てきていて、一見すると“またいつもの”展開のように見えるけれども、しかし今回の展開は本当に深刻だと個人的には思っているところ。
それはなぜか。結論を先に書けば「多くの人が法治を信頼しなくなってきつつある」から。


事実がどうなのかは知りません。が、報じられている話を聞くかぎりでは、本件について直接的責任を負う行政機関各所だけにとどまらず、地元警察までもが、積極的なサボタージュのような形で問題の隠蔽を図ろうとしているように見える。近年、警察や検察の問題として、ノルマ職質や自白強要・証拠捏造などで犯罪化・事件化を強行することが指摘されてきていますが、それと同等に、市民からの訴えを無視して本来すべき捜査・立件をしないのも大問題です。
法治国家において、犯した罪に対する裁きは法の適正手続に基づいてなされる、そのことについて国民が了解・納得するからこそ、どんなに恨みつらみがあろうとも、人は己の矛を収め拳を下ろすのが道理なのだと受け入れるわけで。だからもし、法が適正に運用されていない・法による裁きが公正性を担保していないという不信感が蔓延してしまえば、それはもはや妥当な仲裁・救済として認識されず、人々が再び矛を構え拳を振り上げて自力救済に走ることを止められない、というのは以前の記事でも少し触れたとおり。
ゆえに、法治国家を安定的に運用していくには、法の執行機関が国民から十分に信頼を寄せられていることが必要不可欠です。今や、インターネット上での情報流通によって警察・検察の無茶ぶりも広く知れ渡るようになり、それらの威信も失墜して久しいですが、それでも皆すすんで法を破ろうと思うほどまで軽んじてたわけではない。そんな中、今回の一件で見せつけられた「警察は自分の都合で捜査を放棄する」(ように見える)姿は、あまりにも決定的なのではないでしょうか。その、法執行機関に対する決定的な不信、「体制は、法は、無辜の市民を救済してくれないんだ」という失望こそが、本件における祭・炎上の勢いを加速させているのではないかと推測します。


事ここに至っては、この祭・炎上に加担する人々に対して「私刑はよくない」という言葉は何の意味もなさないでしょう。少なくとも本件に関しては、彼らは法治をもう信じていないだろうから。
彼らを止めるためには、本件が法に基づいて正しく裁かれた、と多くの人が納得する落としどころに着地する他ない。逆に本件を積極的に葬り去り法の裁きから逃れよう・逃そうと隠蔽に躍起になれば、よりいっそう私刑を苛烈にし法治への軽視を招く結果になってしまう。市を相手取った裁判も進められてるなんて話も聞きますが、その結果次第では、私刑によって社会正義を成そうという危険な思想が“普通の”市民感覚として広く定着しかねない、非常に危険な状況になっているように思います。
私自身、もう法執行機関には過大な期待は寄せてませんが、せめて、法治国家を続けていける程度には妥当な手打ちくらい、きちんとケジメつけてほしい、と切に願います。