推敲しる


文章力を鍛えると謳いながら、その文章自体の文章力が疑われている書評エントリの図。
そもそも、絵を描く技術なんかについては「ただ本を読むだけではダメで、描く訓練をしなければ上達しないだろう」って見方が広く共有されているのに、なぜ文を書く技術については「本さえ読んでポイントを押さえれば簡単に上達できる」と思われてしまうのか、不思議でなりませんね。文章だって、単なる心がけとか小手先の技術ってもんじゃなく、きちんと推敲する訓練をしなければ、上達なんかしないと思うんですけど。


元エントリで列挙されているポイントは、どれも共感するところがあるけど、書評を書いてる本人がその意味をきちんと理解していないようにも見える。そのことは、まさにその列挙のしかたに現れていて、なんで互いに異なるレベルのレイヤーに属するポイントどうしを、一緒くたに混ぜ、あたかも互いに独立かつ順不同な項目であるかのように並置してるの?っていう。
具体的に言えば、「読み手に頭を使わせない」というポイントは大きな戦略のレイヤーに属するけど、「文の形をシンプルにする」とか「短く言い切る勇気を持つ」とかはその戦略を実現するために用いられる手法のレイヤーに属しているのであって、その階層構造に基づく従属関係があるはずだよね。「読み手に頭を使わせない」ために「短く言い切る勇気を持つ」みたいな。書籍の中でどのように書かれてるのか知らないけど、少なくとも書評エントリ上ではそこらへんがごっちゃになっちゃってる。


この書評(あるいは書籍)に限らず、一文一文が長くなりすぎないようにしよう、ってのは色んなところで言われてるTipではある。一文が長くなるにつれ、その文中の文節は増え、文節どうしの関係もどんどん複雑になっていく、その複雑さが読者の許容量を超えないようにする、というのがこういったTipの真意でしょう。
いったん文が区切れれば、文節どうしの関係もそこでいったん閉じるから、読者はそのタイミングで文節どうしの関係を整理し理解するチャンスを得る。そして、整理すべき文節の数が少なければ少ないほど、また、それら文節どうしの関係が単純明快であればあるほど、その整理と理解にかかる時間と労力は省ける。したがって一文の長さが短くなればなるほど「読み手に頭を使わせない」文章になりやすい、というわけ。


なので、文節どうしの関係をいかにすんなり理解してもらえるようにするか、が本質であって、なんでもかんでも文を短くすりゃあいいということではない・・・んだけど、やっぱりこの書評はそのへんがわかってないっぽい。それは、書評エントリ中に出てくる例文の扱いに現れています。

「従来のコンビニとは一線を画したものであり、20代、30代の女性をターゲット新機軸を打ち出している。」


この文章を

「従来のコンビニとは一線を画したものである。20代、30代の女性をターゲット新機軸を打ち出している。」


こう直せ、と。


まあ私自身、このブログで駄文悪文を垂れ流してきておいて、人様の文章にあれこれケチをつけられる立場でもありませんけど、しかしこの書き直し方は元の文よりもかえってわかりにくくなってませんかね。


元の文は「Aであり、Bである。」という類の構文だけど、この形が使われる場合は大きく分けて2種類あります。1つはAとBが互いに独立ないし並列の関係にある場合、もう1つはAとBの間に何らかの依存ないし従属関係がある場合。
与えられた文がこの2つのどちらに当たるかによって文全体の意味が変わってきてしまいますから、初見の読者は「Aであり」という文節に到達したら、その次にやってくる文節(「Bである」)との間にどのような関係が結ばれるかを判断すべく、その文中におけるAの位置付けを宙ぶらりんにしたまま先に読み進む必要があります。これは読者の頭を使わせている状況です。
もしAとBが独立の事象であるなら、これらは「Aである。Bである。」というように完全に2つの文に分けることができて、そうすれば読者に余計な判断をさせずに済みます。
しかし、例として挙げられた元の文においては、AとBは独立の関係ではありませんよね。「20代、30代の女性をターゲット新機軸を打ち出している」ことを指して「従来のコンビニとは一線を画したものである」と言っているニュアンス。すなわち、AとBは、結論(=「従来のコンビニとは一線を画したものである」)とその根拠=「20代、30代の女性をターゲット新機軸を打ち出している」)、という関係になっている。このような場合に、ただ単にAとBを分けて2つの文にしてしまうだけでは、よりいっそうAとBの間の関係は不明確になってしまいます。前掲の書き直しにおいて、書き直した後の文が元の文よりもわかりにくくなってしまっているのは、これが理由です。


もし元の文を2つに分けるなら、2つに分けられた文どうしの関係を明確にするため、適切な接続詞や副詞なんかを挿入します。例えば次のように。

「従来のコンビニとは一線を画したものである。というのも、20代、30代の女性をターゲットに新機軸を打ち出しているからである。」


2つの文の関係を明確にする言葉が補われたことで、初見の読者にも1文目と2文目の関係を予測しやすく、より文意を理解しやすい形になったかと思います。*1


しかしこれでも読みやすさとしてはまだまだ不十分です。初見の読者は(当然)2文目よりもまず1文目に先に目を通すわけですが、1文目だけ読んでみたら、どう感じますか?

「従来のコンビニとは一線を画したものである。」


いささか抽象的すぎませんかね。事前知識が何も無いところでこの文だけ読むと「一線を画すったっていろいろ考えられるじゃん・・・具体的に何なの?」という曖昧さがあります。しかもこの文、おそらくは特定のコンビニを特集する記事の文脈かと思われますが、だとすると、他のコンビニと異なる特徴を挙げるのは記事の性質上あたりまえのことで、それを踏まえた読者にとってこの1文目は実質的には何も言っていないに等しいです。*2
そこを補うのが2文目ですが、つまりは2文目まで読んで初めてまとまった解釈が可能になるような構成になってしまっているんですね。文節どうしの関係をわかりやすく文単位に閉じるために文を分けたはずなのに、分けた文をまとめて読まないと意味が通じないのでは、分けた意味がありません。そして2文目に読み進むべく1文目はさっさと読み飛ばされてしまって印象に残りにくいから、いっそう1文目に意味が希薄化してしまいます。
そこで、順序を入れ替えます。

「20代、30代の女性をターゲットに新機軸を打ち出している。この点で、従来のコンビニとは一線を画している。」


具体的な根拠が一番最初に提示されたことによって、抽象的な結論もきちんと読者に理解されるようになったのではないかと。
ここまでちゃんと整理されたなら、実は一文にまとめてしまっても問題ありません。

「20代、30代の女性をターゲットに新機軸を打ち出している点で、従来のコンビニとは一線を画している。」


こうしてみると、元の文は、必ずしも「長かったからわかりにくかった」わけではないことがわかります。そしてそれは同時に、「なんでもかんでも短くすればわかりやすくなる」かと言えば、そうではない、ということも意味しています。教条主義的に文書を整形することが文書を読みやすくするわけではないのがわかるかと思います。


ここではわざわざ理屈を並べて長々と説明しましたけど、文章力のある人、文章を書き慣れた人ってのは、このレベルの推敲は考えずにできるでしょう。さながら珠算を習った人がすらすらと正確に暗算できるように。まあ我々は皆、義務教育とかで現代文を勉強することを通じて、実はこういうことの訓練をしていたので、誰にでも素養はあるはず。そのうえで、やはり文章の作成・推敲を数多くこなすのが文章力を鍛える唯一の方法ではないかと。

*1:AとBが独立・並列の場合にも、その関係を明示する言葉を補うことは有効です。「Aである。と同時に、Bである。」とか「Aである。その一方で、Bである。」など。

*2:これを逆手にとった表現もあります。通俗的な結論を先に言っておき、その根拠として意外なものを後から述べることで、読者に驚きを与えたりなど。