1人1人が表現の自由を担うということと、個人的な不快感を払拭する目的で国家権力を利用しないということ


児ポ法の規制強化案の提出に呼応して、日本漫画家協会日本アニメーター・演出協会コミケ準備会、全国同人誌即売会連絡会など、本当に色んな団体が懸念の声明を発表してきています。今までダンマリなことが多かったのに、こうやって声を上げるようになったのは、素晴らしいですね。


漫画家の赤松健先生も自公維への説明に国会に出向いてたりしてて、説得の効果が上がっていればいいんですけれども。


そしてこの件に関連して、漫画家の佐藤秀峰先生がブログにご意見を書かれています。少し引用しますと、

昔、ヤングサンデーという一般青年漫画誌にこんな漫画が掲載されました。
「未成年(高校生)の少女が電車に乗り込むと、身体障害者の集団が社内に待ち構えており、『早く人間になりた〜〜い!!』と叫びながら、少女を集団で強姦する」

http://mangaonweb.com/creatorDiarypage.do?cn=1&dn=36966

ヤングサンデーの編集者に連絡し、「このようなものを雑誌に掲載してはいけないのではないか?」と抗議しました。

http://mangaonweb.com/creatorDiarypage.do?cn=1&dn=36966

その後、その作品には多くの抗議が集中したと聞きます。

http://mangaonweb.com/creatorDiarypage.do?cn=1&dn=36966


このように、特定の作品の、個別具体的な表現やその流通の仕方に対して批判の声が上がるということは、とても大事です。


前にも書きましたが、表現の自由のキモは、「市民が(国家権力に強いられることなく)自分達で、表現やその流通の仕方を決められる」ということにあります。
ある表現がある仕方で流通していたとき、それをおかしいと思った誰かが批判をし、それを受けて表現者や流通者が自制したり、あるいは反論したり、あるいは周囲の人々が擁護したり、それらに対してまた再反論が出たり、お互いの意見を聞いて譲歩しあったり・・・そういったプロセスを経て「社会に許容される表現と流通の在り方」の緩やかなコンセンサスが立ち上がってくる。それも絶えず流動的に、市民の価値観・思想の移り変わりに柔軟に寄り添いながら変化し続ける。これこそが表現の自由の想定している表現・言論の在り方でしょう。
言い換えるなら、表現の善し悪しを市民達が自律的に(相互監視的に、議論を交わすことで)決めることを至上とし、そこへの国家の介入を可能な限り排除する、ということ。


アニメや漫画やゲームの現状を批判する人は、たいがいここで「自律できてないじゃないか」と主張し、その責任を作家や出版社らに負わせようとします。しかしね、特定の作品の表現内容について個別具体的な批判が提出され、激しく論争が展開されてる様子なんてものを、私ほとんど目にしてないんですよ、国による規制を強化しようという声ばかり大きい割に。どういうことかと言うと、「この表現はけしからん」と思った人が、その作家や出版社に「この表現はけしからん」と伝えることなく、一足飛びに国家の介入を望んでるんじゃないか、ってことです。
例えばね、表現規制が話題に上るたび、2ちゃんねるあたりでは「でもチャンピオンREDいちごは規制されるべき」みたいな書き込みをする輩が数多く見受けられるんですけど、そう書き込んでいる連中のうちの果たして何人が、実際に秋田書店にクレームを入れたんですか?あるいは表現規制の話題が立ち上がってくるよりも前から、問題と目される作品について個別具体的な批判を展開してきたんですか?結局、表現の善し悪しの議論に自分から積極的にコミットしていくつもりが無いくせに、国家権力がたまたま自分にとって気に入らない表現を規制してくれるとなったら、その尻馬に乗ろうとする、その安直さが一番問題だと思うんですよ。


国による表現規制を推進しようとしている人達っていうのも、多かれ少なかれその延長線上なんじゃないでしょうか。つまり個別の表現の善し悪しについての市民的議論にはコミットせず、いきなり国家権力を介入させようとしている。しかしひとたび国家権力の介入を許してしまえば、表現を巡る市民の自律性ってのは確実に損なわれ、賞賛されるべき表現・唾棄されるべき表現が国によって決定される社会になってしまう。それは歴史も証明していることです。
国家権力の尻馬に乗っている人々は、あたかも自分たちが権力を上手く使いこなしているかのような錯覚に陥っているのでしょうが、そうやって暴れ馬の増長を許していると、いずれ振り落とされて自分達が蹴り殺されるハメになります。これは予言や予想ではなく、前例のあることであって、その教訓からいいかげん学びましょうよ、という話です。


改めて言い直すと、表現やその流通の在り方は、市民間の論争でもってコンセンサスを醸成していくべきであり、気に食わない表現があるからといって国家権力による規制を導入しようとするな、というのが表現の自由の本質。
気に食わない表現があるなら「気に食わない」と表明すること。そうやって、表現やその流通の在り方の議論にコミットしていくこと、それこそが、それだけが、表現やその流通の在り方へと自分の倫理観や美意識を反映させる方法なのです。何も声を上げなければそのままだし、それが嫌だから・面倒だからといって国家権力を持ち出そうとするのはあまりに強権的で、危険です。


「表現やその流通の仕方に文句があるのならその旨を述べよ」「さもなくば表現とその流通の仕方は従前のままである」というのは、不遜で傲慢な物言いのように聞こえるかもしれません。「超えちゃいけないライン」は自明なもののように感じられますからね、なぜ予めそれを織り込んだ自制を伴わないのかと憤る気持ちもわかります。
しかし、その“ライン”ってのはどこまでも主観的なものであって、個々人によって違うでしょう。特に、自由主義社会としてここまで発達し価値観の多様化した現代日本においては。あらゆる表現について寛容な人もいれば、教科書のようなガチガチの縛りを表現に課すべきと考える人もいる。性表現に自粛を求めつつも犯罪表現には無関心な人、あるいは、その逆の人。娯楽色をまとっていればどんな表現も許す一方で、現実の社会問題や政治問題が架空の物語の中で真面目に取り扱われるのを嫌う人だっている。
そういった、千差万別、十人十色、多種多様な“ライン”全てについて予め配慮しろ、となったら、何も表現できなくなるんじゃないでしょうか。だからこそ、表現の自由においては、まず「どんな表現であれ発表されることを制限しない」ようにしたうえで「発表された表現に対し批判をぶつけるのも自由」とすることで、個々人のラインを事後的に(論争を通じて)擦り合わせる、という方法を採ってるわけです。
もちろん実務的には、表現が発表される都度、ゼロベースから議論が立ち上がり直すわけではないでしょう。これまでどういうコンセンサスが形作られてきたかという経緯があるわけですから、それに配慮しながら表現する表現者も多いはず。しかしそのコンセンサスにあえて一石を投じるべく挑戦的な表現をする者もいるでしょうし、売らんかなでその一線を踏み越えようとする者もいる。そうなった時には、やはり市民の間の(国家権力の介入のない)議論を通じて、前者と後者を峻別していくべきです。国家権力が敷く規制によっては、おそらく前者と後者を区別しない・できないでしょうから。


本件に限らずですが、国家権力の専横を、自分にとって都合がよければ見過ごす・利用する、という愚かしさからそろそろ卒業し、我々1人1人が自分で声を上げて社会をよりよいものにしていく、という習慣を身に付けるべきなんじゃないかと思います。